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NPO法人ヒューレック研究会

NPO法人ヒューレック研究会のblogです

絶賛「今、なぜ二宮尊徳か」棚橋正光氏講演録(32)~経済とモラルを調和させる実践哲学

1.読後感想31回に亘る「棚橋正光氏」講演録の読後感想が沢山寄せられました。
折角の機会でもありますので、ご紹介させて戴きます。
(1)ピグマリオン精神を判り易く(S.N氏)
NPOヒューレック研究会では、「ピグマリオン精神」を指導理念に、毎年山口彰先生の基調講演で、その実際例として、「偉人伝」の講演を戴き、「二宮尊徳」は、2007年(平成19年)取り上げていただきました。
 そして、同年11月に『手作りミュージカル・「二宮金次郎伝」』を公演しました。
 「ピグマリオン精神」が教育関係者には、深く浸透されているものの、一般には、馴染みがなく、都度説明が必要でした。
わかり易い言葉で、どのように説明すれば良いか?ところが、今回の講演で、棚橋正光氏が紹介していただいた「ささいのりひこ先生の詩」が性別・年齢を超えて誰にでもわかるものです。
この詩は報徳思想を謡ったものですが、「ピグマリオンの心」(人間対象で報徳は、自然・物まで範囲が大きい)を分かり易く表現されています。
ありがとうございました。
「万象具徳」
どんなものにも よさがある
どんなひとにも よさがある
よさがそれぞれ みなちがう
よさがいっぱい かくれている
どこかとりえが あるものだ
もののとりえを ひきだそう
ひとのとりえを そだてよう
じぶんのとりえを ささげよう
とりえととりえが むすばれて
このよはたのしい ふえせかい      
       ささいのりひこ 作
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絶賛「今、なぜ二宮尊徳か」棚橋正光氏講演録(31)~経済とモラルを調和させる実践哲学

30.結び 「村おこし」「地域起し」「企業起こし」は全国各地域で展開されています。
有名な、四国徳島の「葉っぱの村起こし」をご紹介しましょう。
(朝日新聞夕刊より)
(1)徳島県上勝(かみかつ)町・横石知二(ともじ)(50歳
30年前この村は暗かった。林業はダメ、ミカンもダメ若者は村見限り大阪・東京へと仕事にでた。当時20歳の横石氏は、農協の営農職員として農協に招かれた。
86年大阪へ出張のおり、道頓堀のすし屋でのこと、斜め前のテーブルに座っていた、3人組みの女性が「これキレイね」その手元には、赤い「もみじの葉」が料理に添えられていた。
「そんな葉っぱは上勝の山にはいくらでもあるのに・・・。これだ。葉っぱを売ろう!」
上勝に帰り、農家にこの話しを持ちかけると「タヌキじゃあるまいし、葉っぱがお金にかわるかよ」と諭された。
なんとか4人の農家が出荷してくれたが、売れなかった。
虫に食われた葉っぱ、大きさもまちまちだったからである。
どんなはっぱが売れるか横石は自腹で各地の料亭に通いつめ、体重20kg増、通風になった。椿やもみじを手塩にかけ栽培し、四季に合わせた葉っぱをそろえた。軌道に乗ってゆく。
99年には町出資で設立した葉っぱビジネスの第3セクター「いろどり」の取締役に就任。全国の7割を占める。出荷農家の平均年齢70歳をこえるが、年収1千万円を超える人もいる。
葉っぱの成功で、都会から子どもたちが帰ってきた。
お年寄りの表情がほころびはじめる。
お年寄りたちの笑顔を満載した写真集を「立木さとみ」が出版「一朝一石にはうまれない自然の笑顔なんです。笑い続けているから、顔の筋肉が鍛えられているんですね。」
この他12回にわたり紹介記事があります。
(2)天地の和して 一輪福寿草 
結びは、尊徳の詩で締めくくります。
 天地の和して 一輪福寿草 
咲けよこの花 いく代ふるとも
父母も その父母も我身なり
われを愛せよ われを敬せよ
尊徳
ご静聴ありがとうございました。
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絶賛「今、なぜ二宮尊徳か」棚橋正光氏講演録(30)~経済とモラルを調和させる実践哲学

29.「現代社会の課題」
(1)「現代社会の課題」と「特徴的事象」を挙げれば次ぎの通りです
。  
  (現代社会の課題)        (特徴的事象)  
① 宇宙: 宇宙の共有・宇宙ゴミ    (宇宙協定)
② 地球:人口・食料・水       (国連課題)
③ 自然:地球自然環境        (京都議定書)
④ 国・民族:国際紛争・グローバル化   (国際化)
⑤ 産業・経済:IT産業・物作り崩壊  (工場海外へ)
⑥ 地域社会:地方分権・過疎・破産  (地方自治)
⑦ 家族:家族の絆・核家族    (ニート/非正規雇用)
⑧ 個人: 個の尊重・利己的    (利己的・自殺者)
(2)「今、なぜ二宮尊徳か」   
現代社会の課題」と「特徴的事象」を見ると、前述のテーマに上げた「今,なぜ二宮尊徳か?」~経済とモラルを調和させる実践哲学~をもう一度復習してみましょう。
①二宮尊徳は一介の農夫でありながら、“我欲”を捨て、世のため人のために骨身を削りながらすさまじいばかりの人生を終えた人である。この人物の残した処世上の知恵とかずかずの哲理は私たち一人ひとりが今の自分の身の上に置き換え、思いを深くし、学ぶことが彼の真意を会得する近道ではないでしょうか。
②尊徳の幼少時代はもちろん、成人してからの彼の業績にこそ、現代の我々が多くを学びかつ現実に生かせるエッセンスが多く秘められています。
③先の見えない時代・・・・求められる人財
逆境を跳ね返せる人
④猪瀬直樹副知事は、『人口現象社会の成長戦略「二宮金次郎はなぜ薪(たきぎ)を背負っているのか?」』サブタイトルに『あなたを勇気づける「」改革力」がここにある』著書を出版され、人々に呼びかけております。
  そこで、我々が実行しなくてはならないことも整理してみましょう。
(3)「今、我々が実行しなくてはならないこと」
① 「知識や学があっても行動しなければ事は成らぬ・金次郎」
② 「温故知新」「不易流行」
①「温故知新」古きをたずね、新しきを知る。「二宮金次郎の生涯、生き様」「報徳仕法」をたずね、現代の課題解決にいかに活用すべきかをしる。
②「不易流行」芭蕉が俳諧について言った言葉。「不易は芸術の本質の不変性。
  流行は時代とともに新しくなる、流動性。両者の根本は、ともに風雅の誠にあるとされる」
つまり、変えてはいけないこと、変えるべきことを見極める力、そこに「人間としての生き方」をしっかり持つ。
(4)「愛と献身」の詩
  「人間としての生き方」で「金次郎」の「一円観」とよく似た詩をアインシュタインjが書いています。
「愛と献身」アインシュタイン作詩
人がこの世に存在するのは、他の人に尽くすことにある。
第一には、自分の投げかける微笑が影響を及ぼす範囲、すなわち家族、隣人、職場の人々のために、
第二には、連帯の絆に結ばれている無数の人々、すなわち多くの同胞のために、尽くすことにある。
私は自分の外的、内的生活が、いかに多くの人々そして、いまいない祖先の方々の、お骨折りの上に成り立っているかを驚きをもって知っている。
自分が受け取ったものと同じだけのものを、お返しするとしたら、私は、どれほどの努力をしなければならないか、そう思うと、その重みでつぶされそうである。せめて、できる範囲で心込めて、お返ししようと努めること。それが人間の条件である。
(5)「積小為大」大事をなさんと欲せば 小なる事を怠らず勤べし
小積もりて大となればなり 二宮尊徳
私たちは、身近なできることから先ず実行しようということです。
それが、「村おこし」「地域起こし」あるいは、「企業起こし」につながるかもしれません。
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絶賛「今、なぜ二宮尊徳か」棚橋正光氏講演録(29)~経済とモラルを調和させる実践哲学

28.「尊徳の実践哲学」と「企業で実践」した例(10)
(10)松下幸之助(松下電器創業者)
  
「経営の神様」と言われた「松下幸之助」の考え方にも「自他両全」の精神が随所に現れている。
 「商売というものは、本当は売る方も買う方も双方が喜び、双方が適性な利益を交換するということでやらないと長続きはしませんし、それは結局、お互いのためにならないと思うからです。(松下幸之助:「商売心得帳」)
『「徳をもって報いる」方策で臨んでこそお客さんに心からいただけ、お店の良 
きファンになって頂けるのでは、ないでしょうか』(同上)
このように「松下幸之助」は、口で言うのみでなく、これを実行している。
例えば1930年頃(昭和5年頃)に同社の主力商品であったアイロンの生産量が伸び、コスト削減が可能となるや、直ちに価格を引き下げて、消費者にこれを還元した。
 製造業者は、コストは下がっても、価格は据え置き、できるだけ早く投下資本の回収を図る。これが商売人の智恵と思われていた時代に、常識を超えたところに商いの活路を開き、成功を収めた。
【村松 敬司(大日本報徳者専務理事)「二宮金次郎の経営学」より引用】
① 誕生から創業まで
1894年(明治27年)から1918年(大正7年)まで
1和歌山県和佐村に生まれる 1894年(明治27年)11月27日
2父が米相場に失敗 1899年(明治32年)
3紀ノ川駅から大阪に旅立つ 1904年(明治37年)
4火鉢店に奉公 1904年(明治37年)
5.初めてもらった5銭白銅 1904年(明治37年)
6.五代自転車店に奉公 1905年(明治38年)
7.父の諭しで実業を続ける 1906年(明治39年)
8.煙草の買いおき 1906年(明治39年)
9.初めて自転車を売る 1908年(明治41年)
10市電を見て電気事業にあこがれる 1910年(明治43年)
11桜セメントに臨時就職 1910年(明治43年)
12小蒸気船から安治川に転落 1910年(明治43年)
13大阪電灯に内線見習工として入社 1910年(明治43年)
14鰻谷の住友本邸の門前で 1911年(明治44年)
15イルミネーション工事に参加 1912年(明治45年)
16関西商工学校夜間部に入学 1913年(大正2年)
17芦辺劇場の電灯工事を担当 1914年(大正3年)
18八千代座の前で見合い 1915年(大正4年)
19工事担当者から検査員に昇進 1917年(大正6年)
20独立を決意 1917年(大正6年)
21改良ソケットの製造販売に着手 1917年(大正6年)
22苦心のソケットは売れず 1917年(大正6年)
23扇風機の碍盤を受注 1917年(大正6年)
② 創業から終戦まで
1918年(大正7年)から1945年(昭和20年)まで
24.松下電気器具製作所を創立 1918年(大正7年)
25.M矢の商標を制定 1920年(大正9年)
26.歩一会を結成 1920年(大正9年)
27電話を初めて架設 1920年(大正9年)
28税金に悩んで悟ったこと 1921年(大正10年)
29第1次本店・工場を建設 1922年(大正11年)
30砲弾型電池ランプを考案 1923年(大正12年)
31関東大震災が起こる 1923年(大正12年)
32代理店制度を実施 1923年(大正12年)
33山本商店にランプの販売権を譲渡 1925年(大正14年)
34区会議員に推されて当選 1925年(大正14年)
35特許第1号を出願 1926年(大正15年)
36ランプの販売権を買い戻す 1926年(大正15年)
37力石で運を試す 1926年(大正15年)
38電熱部を設置 1927年(昭和2年)
39住友銀行と取引を開始 1927年(昭和2年)
40角型ランプを発売 1927年(昭和2年)
41新聞にランプの広告を出す 1927年(昭和2年)
42スーパーアイロンが完成 1927年(昭和2年)
43綱領と信条を制定 1929年(昭和4年)
44深刻な不況を独自の打開策で克服 1929年(昭和4年)
45不況下に自動車を購入 1930年(昭和5年)
46初荷を挙行 1931年(昭和6年)
47ラジオの生産販売を開始 1931年(昭和6年)
48歩一会第1回春期運動会を開催 1931年(昭和6年)
49事業の真使命に思い至る 1932年(昭和7年)
50第1回創業記念式を挙行 1932年(昭和7年)
51重要特許を買収し一般に公開 1932年(昭和7年)
52新春を迎えて 1933年(昭和8年)
53事業部制を実施 1933年(昭和8年)
54朝会・夕会を実施 1933年(昭和8年)
55モートルの研究を開始 1933年(昭和8年)
56「松下電器の遵奉すべき5精神」を制定 1933年(昭和8年)
57門真地区に本店・工場を建設 1933年(昭和8年)
58守口三郷地区に乾電池工場を建設 1933年(昭和8年)
59店員養成所を開校 1934年(昭和9年)
60正価販売運動を推進 1935年(昭和10年)
61松下電器貿易(株)を設立 1935年(昭和10年)
62松下電器産業株式会社に改組 1935年(昭和10年)
63基本内規を制定 1935年(昭和10年)
64ナショナル電球(株)を設立 1936年(昭和11年)
65加藤大観師と同居 1937年(昭和12年)
66「ナショナル」マークを改正統一 1937年(昭和12年)
67高野山に物故従業員慰霊塔を建立 1938年(昭和13年)
68「3つの心得」を通達 1939年(昭和14年)
69テレビの公開実験に成功 1939年(昭和14年)
70第1回経営基本方針発表会を開催 1940年(昭和15年)
71発明者・考案者番付 1941年(昭和16年)
72歩一会大運動会を開催 1941年(昭和16年)
73太平洋戦争が起こる 1941年(昭和16年)
74軍の要請で松下造船(株)を設立 1943年(昭和18年)
75軍の要請で松下飛行機(株)を設立 1943年(昭和18年)
76M矢の社章を三松葉に改訂 1943年(昭和18年)
77社内演芸大会を実施 1944年(昭和19年)
78太平洋戦争が終わる 1945年(昭和20年)
③ 終戦から会長就任まで
1945年(昭和20年)から1961年(昭和36年)まで
79経営再建に取り組む 1945年(昭和20年)
80労働組合の結成大会に進んで出席 1946年(昭和21年)
817つの制限を受ける 1946年(昭和21年)
82財閥指定に抗議 1946年(昭和21年)
83公職追放除外嘆願運動が起こる 1946年(昭和21年)
84PHP研究所を創設 1946年(昭和21年)
85会社の苦境を従業員全員に訴える 1948年(昭和23年)
86物品税の滞納王と報道される 1949年(昭和24年)
87緊急経営方針発表会を開催 1950年(昭和25年)
88「再び開業する心構え」を説く 1951年(昭和26年)
89アメリカ視察の旅に出発 1951年(昭和26年)
90輪界復帰を発表 1951年(昭和26年)
91中川機械(株)と提携 1952年(昭和27年)
92フィリップス社と技術提携 1952年(昭和27年)
93乾電池の自主開発を決意 1952年(昭和27年)
94新政経「1周年記念講演会」を開催 1953年(昭和28年)
95日本ビクター(株)と提携 1954年(昭和29年)
962年遅れで創業35周年を祝う 1955年(昭和30年)
97「5ヵ年計画」を発表 1956年(昭和31年)
98百貨店の乱売問題が起こる 1956年(昭和31年)
99天皇、皇后両陛下が高槻工場に行幸啓 1956年(昭和31年)
100オレンジ・ナッソ勲章を拝受 1958年(昭和33年)
101アメリカ松下電器を設立 1959年(昭和34年)
102「5年先に週5日制を」と発表 1960年(昭和35年)
103オランダを夫婦で訪問 1960年(昭和35年)
104突如、社長退任を発表 1961年(昭和36年)
105従業員の福祉基金に私財2億円を寄贈 1961年(昭和36年)
④会長就任から逝去まで
1961年(昭和36年)から1989年(平成元年)まで
106本社新社屋が竣工 1961年(昭和36年)
106PHP研究を再開 1961年(昭和36年)
107「所得倍増の二日酔い」を発表 1961年(昭和36年)
108.タイム誌で紹介される 1962年(昭和37年)
109.「経営指導料」について発表 1963年(昭和38年)
110.タイム社創立40周年記念祝賀会に出席 1963年(昭和38年)
111.ロサンゼルス市で歓迎される 1963年(昭和38年)
112.中央研究所の新社屋が竣工 1963年(昭和38年)
113.NHKで池田総理と対談 1963年(昭和38年)
114.海外から賓客が来訪 1955年~(昭和30年代後半)
115.CIOS主催の国際経営会議で講演 1963年(昭和38年)
116.大阪駅前陸橋の寄贈を発表 1964年(昭和39年)
117.販売会社社長懇談会を開催 1964年(昭和39年)
118.「共存共栄」の色紙を贈呈 1964年(昭和39年)
119.ライフ誌で紹介される 1964年(昭和39年)
120.大型コンピュータ事業から撤退 1964年(昭和39年)
121.「ダム経営」について発表 1965年(昭和40年)
122.週5日制を実施 1965年(昭和40年)
123.早稲田大学の名誉法学博士に 1965年(昭和40年)
124.「青春」の額を贈呈 1966年(昭和41年)
125.「天馬往空之像」が完成 1966年(昭和41年)
126.「5年後に欧州を抜く賃金を」と発表 1967年(昭和42年)
127.「松下電器歴史館」が開館 1968年(昭和43年)
128.創業50周年記念式典を挙行 1968年(昭和43年)
129.「児童の交通等災害防止対策資金」を寄贈 1968年(昭和43年)
130.霊山顕彰会会長に就任 1968年(昭和43年)
131.「科学と工業の先覚者」の銅像が完成 1968年(昭和43年)
132.「過疎地に工場建設を」と発表 1968年(昭和43年)
133.PHP誌が100万部を達成 1969年(昭和44年)
134.松下電器技術展を開催 1969年(昭和44年)
136.万博松下館の開館式を挙行 1970年(昭和45年)
137.勲一等瑞宝章を拝受 1970年(昭和45年)
138.英文版PHP誌を創刊 1970年(昭和45年)
139.タイム・カプセルを埋設 1971年(昭和46年)
140.飛鳥保存財団理事長に就任 1971年(昭和46年)
141.「人間を考える」を発刊 1972年(昭和47年)
142.会長を退任し、相談役に就任 1973年(昭和48年)
143.「感謝の会」に夫婦で出席 1973年(昭和48年)
144.「崩れゆく日本をどう救うか」を発刊 1974年(昭和49年)
145.松下労組の結成30周年記念式典に出席 1976年(昭和51年)
146.再びロサンゼルス市へ 1976年(昭和51年)
147.パナソニック社を訪問 1976年(昭和51年)
148.「私の夢・日本の夢 21世紀の日本」を発刊 1977年(昭和52年)
149.山下俊彦取締役が社長に就任 1977年(昭和52年)
150.創業60周年を迎える 1978年(昭和53年)
151.「パングリマ・マンク・ネガラ勲章」を受賞 1979年(昭和54年)
152.中国を訪問 1979年(昭和54年)
153.関西日蘭協会が創立20周年 1979年(昭和54年)
154.松下政経塾を開塾 1980年(昭和55年)
155.創業命知50年記念式典を開催 1981年(昭和56年)
156.「創業の森」が本社構内に完成 1981年(昭和56年)
157.「松下幸之助教授職」を設置 1981年(昭和56年)
158.「世界を考える京都座会」が発足 1983年(昭和58年)
159.「大阪21世紀計画」開幕式が挙行される 1983年(昭和58年)
160.日本国際賞授章式が挙行される 1985年(昭和60年)
161.松下記念病院が竣工 1986年(昭和61年)
162.ツイン21ビルが竣工 1986年(昭和61年)
163.勲一等旭日桐花大綬章を拝受 1987年(昭和62年)
164.94年の生涯に幕 1989年(平成元年)
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絶賛「今、なぜ二宮尊徳か」棚橋正光氏講演録(29)~経済とモラルを調和させる実践哲学

28.「尊徳の実践哲学」と「企業で実践」した例(9)
(9)大原孫三郎(倉敷紡績で報徳思想の実践者)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
①大原孫三郎(1880年7月28日 - 1943年1月18日)は日本の実業家。
(倉敷紡績、倉敷絹織、倉敷毛織、中国合同銀行(中国銀行の前身)、中国水力電気会社(中国電力の前身)の社長を務め、大原財閥を築き上げる。
社会、文化事業にも熱心に取り組み、倉紡中央病院、大原美術館、大原奨農会農業研究所(現・岡山大学資源生物科学研究所)、倉敷労働科学研究所、大原社会問題研究所(現法政大学大原社会問題研究所)、私立倉敷商業補修学校(現岡山県立倉敷商業高等学校)を設立した。

② 来歴・人物
岡山県倉敷市の大地主で倉敷紡績(クラボウ)を営む大原孝四郎(1833年-1910年)の三男として生まれる。大原家は文久年間村の庄屋をつとめ明治の中頃には所有田畑約800町歩の大地主となった豪家である。二人の兄が相次いで夭折したため、孫三郎が大原家の嗣子となった。明治30年(1897年)東京専門学校(後の早稲田大学)に入学。若年は富豪の跡継ぎとして放蕩生活を送り、専門学校時代も殆ど講義には顔を出さなかった。放蕩の果てに現在の金額で1億円もの借金を抱え、明治34年(1901年)父親より東京専門学校を中退のうえ倉敷に連れ戻され、謹慎処分を受けた。
③ 謹慎中に石井十次を知り、その活動に感銘を受けた。孫三郎は社会福祉事業にも興味を示すようになり、後に工員の環境改善や農業改善に取り組んでいる。明治34年、十次の紹介で石井スエ(のち、寿恵子)と結婚。倉敷紡績に入社。工員が初等教育すら受けていないことに驚き、職工教育部を設立。明治35年(1902年)には工場内に尋常小学校を設立した。また、倉敷商業補修学校(現在の倉敷商業高校)を設立し、働きながら学ぶ工員の教育を支援した。学びたくても資金がない地元の子弟のために大原奨学会を開設。後に大原美術館の礎となるコレクションを集めた洋画家・児島虎次郎もこの奨学生となっている。
④ 明治39年(1906年)、社員寮内で感染病を出し社員数名を死亡させた責任を取る形で父が辞任したため、倉敷紡績の社長となる。就任と同時に工員の労働環境改善を図った。従来の飯場制度を廃止し、従業員の確保・食事の手当・日用品の販売等を会社が運営するよう改めた。工員の住居も集団寄宿舎から今日のような社宅に近い状態に改め、駐在医師や託児所までの設備も備えており、更には社員勧誘用の映画までも作った。また、幹部社員に大学・専門学校の卒業生を採用した。また、会社の利益のほとんどを日露戦争などで増えた孤児を救うために孤児院を支援。支援金額は現在の金額では数百億円に上ったと言われるほど。旧来の重役や株主は守旧的や利益主義であり当然これらの改革には反対した。これに対し後に口癖となった「わしの眼は十年先が見える」という言葉で押し切った。
大正3年(1914年)に大原奨農会農業研究所(現在の岡山大学資源生物科学研究所の前身)を設立し、農業の改善も図った。また、社会問題の研究機関として大正8年(1919年)2月に大原社会問題研究所(現在の法政大学大原社会問題研究所)を開設。のちにマルクス経済学の研究が中心となり、大原社会問題研究所や孫三郎もまた特別高等警察から警戒された。だが戦後になり復興し、多くの貴重な書籍が発見されたり大原社会問題研究所は多くの政治家などを輩出した。大正10年(1921年)には労働環境改善の研究機関として倉敷労働科学研究所(現在の労働科学研究所)を開設した。大正12年(1923年)倉紡中央病院(現在の倉敷中央病院)を設立し、工員のみならず市民の診療も行った。
工場を蒸気による動力から電気動力への転換を図り中国水力電気会社(現在の中国電力)を設立。中国合同銀行(現在の中国銀行)の頭取となり、地元経済界の重鎮となった。さらに大正15年(1926年)には倉敷絹織(現在のクラレ)を設立。
昭和5年(1930年)児島虎次郎に収集を依頼した各国の美術品を収蔵する大原美術館開館。昭和10年(1935年)倉敷毛織を設立(後、倉紡に吸収合併)。昭和14年(1939年)長男の大原総一郎に企業体を引き継ぎ引退。昭和18年(1943年)倉敷市の自宅で死去。62歳だった。
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絶賛「今、なぜ二宮尊徳か」棚橋正光氏講演録(28)~経済とモラルを調和させる実践哲学

27.「尊徳の実践哲学」と「企業で実践」した例(8)
(8)鈴木藤三郎(日本精糖の創業者)

「黎明日本の開拓者 父鈴木藤一郎」
氷砂糖の製法を発明!
 1855年(安政2年)森町本町に生まれた鈴木藤三郎が、氷砂糖の製法を発明したのは1883年(明治16年)、28歳の時でした。
 その翌年、森町明治町に氷砂糖工場を新設。さらに当時の日本に精製糖の工場が少なかったことに目をつけた藤三郎は、持ち前のバイタリティを発揮して東京に進出し、鈴木製糖所、日本精製糖株式会社、台湾製糖株式会社を次々設立し、「日本製糖業の父」と言われています。
  また、すぐれた発明家として知られ、特許総数 実に159件を数え、 藍綬褒章(らんじゅほうしょう)を受けています。衆議院議員に当選し、福川泉吾とともに周智農林学校(現周智高等学校)を創設するなど、さまざまな分野で活躍し、1913年(大正2年)58歳で生涯を閉じました。 
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絶賛「今、なぜ二宮尊徳か」棚橋正光氏講演録(27)~経済とモラルを調和させる実践哲学

26.「尊徳の実践哲学」と「企業で実践」した例(7)
(7)佐久間貞一(大日本印刷の創始者)

① 実業家。
幕臣(賄方(まかないかた)佐久間甚右衛門の長子として江戸・日本橋に生まれる。幕府儒官安井息軒(やすいそくけん)に学び彰義隊にも加わる。明治維新後、北海道開拓事業などに携わるが、教部省出仕後の1876年(明治9)京橋に活版印刷所、秀英舎(現在の大日本印刷)を共同出資で設立。以後、印刷、出版事業を中核として各種の事業に関係した。当時の進歩的実業家として雑誌上に社会政策を論じ、東京市議会、東京商業会議所、農工商高等会議の各議員を務めて工場法制定に尽力した。さらに、89年自ら秀英舎において最初の印刷工組合を組織したり、多くの労働者保護施策を実行したところから、「日本のロバート・オーエン」と称される。  [執筆者:浅野俊光]
②印刷業に 旧幕臣の 佐久間貞一 
明治九年(一八七六)東京・銀座の数寄屋橋ぎわに創設された秀英舎(しゅうえいしゃ)(現・大日本印刷株式会社)の初代舎長、佐久間貞一は、こんな講演を残している。
<私は旧幕府の人間でござりましたから、明治の初めに東京を出て処々方々を遁(に)げ歩きまして(後略)>
 慶応四年(一八六八)五月、江戸城を明け渡した旧幕臣のうちの約千人が彰義隊を結成して上野の山に立てこもった。大村益次郎の指揮する官軍に蹴散らされて悲惨な結末を迎えたが、彰義隊に参加した佐久間がその戦陣をどう掻い潜ったかは明白ではない。
 その年九月、慶応は明治と改元され、大政を奉還した徳川家は静岡七十万石の藩主に移された。幕府賄方(まかないかた)(食料品の調達・調理担当役)の小禄の武士に生まれた佐久間は当時二十歳で、静岡に移住し、掛川で学問や武術を学び直した。興味深いのは、この静岡藩の優秀な人材を全国諸藩に貸し出す制度が設けられたことである。明治三年、佐久間はなんと官軍の本拠地、鹿児島に貸し出され、小学校などを新設する仕事に参加する。
 こうした中で佐久間は実業家を志し、西欧の新しい活版技術が教育や宗教の普及のためには必要と気づき、印刷会社秀英舎を創設する。秀英舎には「先進国の英国より秀でる」願いが込められており、社名の看板が勝海舟の直筆というのが自慢だった。
 当初は苦難の連続だったが、これも旧幕臣、中村正直のベストセラー『西国立志編(さいごくりつしへん)』(明治三年から木版で刊行)を活版で発行する仕事を引き受け、これが爆発的に売れて事業は順風満帆で発展する。
  佐久間は自ら現場に入って従業員と作業を共にするタイプで、設備の近代化と労働環境の改善に努めた。会社が現在地の新宿区市谷加賀町一−一に敷地を求めたのは明治十九年である。
(掲載号:07月31日号)
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絶賛「今、なぜ二宮尊徳か」棚橋正光氏講演録(26)~経済とモラルを調和させる実践哲学

25.「尊徳の実践哲学」と「企業で実践」した例(6)
(6)早川千吉郎(三井財閥形成の功労者)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
早川千吉郎(はやかわ せんきちろう、文久3年6月21日(1863年8月5日) - 大正11年(1922年)10月14日)は明治、大正期の官僚、実業家、政治家。
石川県出身。明治20年(1887年)、東京帝国大学法科大学政治学科卒業。明治22年(1889年)、同大学院農政学研究科修了。明治23年(1890年)1月、大蔵省入省。明治32年(1899年)日本銀行監理官。明治33年(1900年)辞職。
明治34年(1901年)、三井銀行専務理事。明治42年(1909年)三井銀行常務取締役。大正7年(1918年)、三井合名会社副理事長。大正9年(1920年)から大正11年(1922年)まで貴族院議員。
大正10年(1921年)5月、南満洲鉄道株式会社社長。在職中の大正11年(1922年)10月死去。
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絶賛「今、なぜ二宮尊徳か」棚橋正光氏講演録(25)~経済とモラルを調和させる実践哲学

24.「尊徳の実践哲学」と「企業で実践」した例(5)
(5)荘田平五郎(三菱財閥中興の祖)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
荘田 平五郎(しょうだ へいごろう、弘化4年10月1日(1847年11月8日) - 大正11年(1922年)4月30日)は日本の男性実業家。
① 生涯
弘化4年(1847年)、豊後国臼杵(現・大分県臼杵市)に、臼杵藩の儒者荘田允命の長男として生まれる。藩校の学古館で抜群の秀才だった荘田は慶応3年(1867年)、19歳で選抜され江戸の英学塾青地信敬塾(あおちしんけいじゅく)に入門。その後一時薩摩藩の開成所に転じ、明治3年(1870年)、23歳で再び上京し念願の慶應義塾に入塾した。福澤諭吉は荘田の卓抜した識見と才能を認め、わずか4カ月後には荘田を義塾の教師とした。荘田はやがて義塾分校設立のために大阪、京都に派遣され、そこで「学問と算盤(そろばん)の両刀使い」ぶりを十分に発揮し福澤の期待に応えた。
明治7年(1874年)、三田に戻り、再び慶應義塾で教鞭(きょうべん)を執ることになった。明治8年(1875年)2月に三菱に入社。三菱での荘田の最初の仕事は「三菱汽船会社規則」の策定だった。明治8年5月に発表された。さらに2年後に経理規程ともいうべき「郵便汽船三菱会社簿記法」を纏(まと)めた。これにより三菱は、大福帳経営を脱し、日本で初めて複式簿記を採用し、徐々に近代的な経営システムを確立する。
初期三菱の経営戦略を担った荘田は、東京海上保険会社(現在の東京海上日動火災保険)、明治生命(現在の明治安田生命)保険会社の設立に関わり、第百十九国立銀行を傘下に入れ、東京倉庫会社を設立するなど、さまざまな分野への進出を図った。明治18年の日本郵船設立に際しては三菱側代表として創立委員になり理事に就任した。明治19年(1886年)に三菱が海運以外の事業を目的として「三菱社」の名で再発足するときに本社支配人として復帰、のち管事となり新生三菱を指揮した。1888(明治21)年に発売となったキリンビールの「麒麟」の名付け親でもある。当時輸入されていた西洋ビールに狼や猫等の動物が用いられていた為、東洋らしさを出す為空想上の動物「麒麟」を商標にしようと荘田が提案したのである。
明治22年(1889年)、荘田は英国の造船業界などの実情視察のために外遊した際に、ロンドンのホテルの部屋で開いた新聞のコラムに「日本政府、陸軍の近代的兵舎建設のために丸の内の練兵場を売りに出すも買い手つかず」とあるのを発見した時に「日本にもロンドンのようなオフィス街を建設すべきだ。皇居の目の前の丸の内こそその場所だ。」と感じ、岩崎弥之助に「丸の内、買い取らるべし」と打電。岩崎弥之助が松方正義蔵相と合意した買取額は128万円。当時の東京市の年度予算の3倍。荘田は丸の内の産みの親である。
また、荘田は長崎造船所の大改革も行なった。長崎造船所は明治20年(1887年)に国から払い下げられた。明治28年(1895年)に日本郵船が欧州航路の開設を決定したが、社外取締役の荘田の主張で新造船6隻のうち1隻は長崎造船所に発注された。常陸丸(ひたちまる)6172トン。それまでの最大建造実績は須磨丸の1592トンだから技術的にも大変なジャンプである。明治30年(1897年)に造船奨励法が公布され、修繕船から脱皮し新造船を事業の中核にするのだという明確な意識を持った岩崎久弥は、本社の管事として全事業を指揮する立場にあった荘田をあえて長崎造船所長に任命した。荘田は勇躍長崎に赴き、積極的な設備拡充を図り、貨客船や軍艦などその後の日本の大型船建造の道を開拓した。
荘田の近代化はハード面だけではなかった。「傭使人扶助法(ようしにんふじょほう)」「職工救護法」など労務管理制度を確立、所内には工業予備校を設立し自前で職工の養成を図るようにした。また、造船における厳しい原価計算の概念を導入した。今では当たり前のことだが、当時の日本企業には製造原価など工業簿記の概念はなかった。
荘田は明治39年(1906年)まで長崎造船所の所長を務め、また永らく管事として弥太郎、弥之助、久弥の三代を支え、明治43年(1910年)に引退した。豪傑肌の人物が多い明治の三菱の経営者たちの中にあって、唯一の英国風のジェントルマンであり、生涯を通して「組織の三菱」といわれるような近代的なシステムづくりに貢献した。
その後、荘田は明治生命保険会社の取締役会長になった時期もあったが、晩年は受刑者の社会復帰事業に協力したり聖書の勉強をしたり、後進の指導と共に静かな余生を送り、大正11年(1922年)に74歳で他界した。
② 家族
妻は弥太郎の妹・佐幾(さき)の長女・藤岡田鶴(たづ)。長男荘田達弥は元三菱重工取締役。四男荘田泰蔵は日本航空業界の重鎮(三菱重工副社長、戦後初の航空機製造会社である日本航空機製造社長、成田国際空港委員長を歴任)。五男は義弟各務鎌吉の養子となる各務孝平(元三菱重工取締役)"
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絶賛「今、なぜ二宮尊徳か」棚橋正光氏講演録(24)~経済とモラルを調和させる実践哲学

23.「尊徳の実践哲学」と「企業で実践」した例(4)
(4)鈴木馬左也(住友財閥総理事)
  
 明治から大正にかけて「住友本社の総理事」として、住友を近代的大財閥に育て上げた「鈴木馬左也」もまた「中央報徳会」の役員であった。
「鈴木馬左也」の言行録(「鈴木馬左也」伝)にも、「万事自他ともに利することが必要で、決して我利に陥ってはならぬ」と「自他両全の精神を強調した言葉がある。
  さらに「徳を先にして利を後にする。徳によって利を得る」
 「(暴利を占むることは住友の方針ではなく、当然の利を占むればよいのである」 等等・・と述べ浮利を追わぬ住友精神を貫かんとする意気をはっきり示している。
【村松 敬司(大日本報徳者専務理事)「二宮金次郎の経営学」より引用】
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 ① 生い立ち
鈴木 馬左也(すずき
まさや、文久元年2月24日(1861年4月3日) - 大正11年(1922年)12月25日)は、第三代住友総理事である。
文久元年(1861年)2月24日、高鍋藩家老の父秋月種節(たねよ)と久子の四男として、日向国高鍋(現・宮崎県児湯郡高鍋町)で生まれた。明治元年、母方の大叔父鈴木翔房(たかふさ)が七五歳で没し、その養子衞房(もりふさ)も戊申の役に加わり、27歳で戦死した。翌2年、馬左也は鈴木家再興のため、戦死した衞房の養子となり同家を継いだ。明治9年旧制宮崎中学を卒業し、同年金沢の啓明学校へ入学したが翌年退学して、11年から東京帝国大学予備門に入学し明治20年、27歳で東京帝国大学を卒業すると内務省に入り、22年愛媛県書記官として赴任した。翌年別子銅山開坑200年祭に来賓として新居浜に招かれ、住友との最初の出会いをはたす。明治29年1896年、農商務省参事官を退官し、住友に入社、大阪本店の副支配人となる。明治32年(1899年)別子鉱業所支配人となる。伊庭貞剛の別子大造林計画を継承し大正6年(1917年)から北海道北見から、九州宮崎県の椎葉村まで山林事業を起こし、また朝鮮の国有林にまで植林を敢行した。大正2年新居浜の煙害問題解決のひとつとして住友肥料製造所(現、住友化学)を開設した。明治37年(1904年)第三代総理事に就任。明治44年住友電線製造所(現、住友電工)を設立。明治45年には伸銅場(現、住友金属・住友軽金属)で継ぎ目なし鋼管の製造に着手し、海軍の復水管需要に応える。大正2年(1913年)住友肥料製造所(現住友化学)を設立し、同8年大阪の臨海工業地帯建設のために大阪北港(後の、住友土地工務)を設立した。さらに同年、別子鉱山の電源開発を目的に土佐吉野川水力電気(後の住友共同電力)、宮崎県の椎葉植林に関係して耳川の水利権を確保した。これらが現在の四国・九州電力発足の遠因となる。大正7年日米板硝子(現、日本板硝子)を設立、同九年日本電気へ資本参加した。また1921年には住友本店を合資会社に改組するなど、住友の発展の大いに貢献した。
秋月左都夫は兄にあたる。
② 商社設立禁止宣言
・住友には、戦前独立した商事部門がなかった。第一次世界大戦が勃発し、経済界は非常な好況期を迎え、大正7年(1918年)11月に休戦協定が成立した後も、輸出はますます活況を呈し、貿易商社は大きな収益を挙げたので、多数の商社が続々と設立され貿易に乗り出していった。鈴木は、大正8年(1919年)3月、戦後の欧米の状況視察に外遊したが、その不在中に住友総本店幹部の間に、三井、三菱の隆盛に圧倒されていた状況もあって、住友も時流に乗って商事貿易に進出すべきであるとの意見が強まり「他所製品取り扱いの件」と題する、いわゆる商事会社設立構想の起案文書まで用意して、総理事の帰国を待った。鈴木は欧米の視察を終えて帰途、大正9年(1920年)1月、上海に立ち寄った時、住友上海洋行(支店)の支配人が、商事会社を設立することの必要性を力説し総本店の空気を伝えた。しかし鈴木は、これに同意しなかったばかりか、帰国すると直ちに関係者を呼び出し、厳しく商事の禁止を申し渡し、さらに主管者会議の席上「住友は絶対に商事はやってはならぬ」と宣言した。これが大正9年(1920年)1月の「商社設立禁止宣言」であり、戦後、商社が開設されるまで、住友では商社開設が禁句になってしまった。三井・三菱が商いから身をたてたのに比較して、住友は別子銅山を中心に製造業で伸びてきた違いがあり、商事部門に対する見方が狭かったのである。このため、昭和20年に日本建設産業(現住友商事)が設立されるまで、四半世紀ものあいだ住友では、商社開設はタブーとなった。
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絶賛「今、なぜ二宮尊徳か」棚橋正光氏講演録(23)~経済とモラルを調和させる実践哲学

21.「尊徳の実践哲学」と「企業で実践」した例(3)
(3)御木本幸吉(真珠王、ミキモト真珠)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
① 誕生
御木本幸吉(みきもと こうきち、安政5年1月25日(1858年3月10日) - 1954年(昭和29年)9月21日)は真珠の養殖とそのブランド化などで富を成した人物である。御木本真珠店(現・ミキモト)創業者。真珠王と呼ばれる。
② 生涯
志摩国鳥羽浦の大里町で代々うどんの製造・販売を営む「阿波幸」の長男として生まれた。父は音吉、母はもと。幼名は吉松と名付けられた。父は商売よりも機械類の発明・改良に関心があり、1881年(明治14年)には粉挽き臼の改良により三重県勧業課の表彰を受け賞金100円を授与されている。祖父・吉蔵は「うしろに目があるような人」と言われたように、先が見え商才に恵まれていた。大伝馬船を10艘も持ち石材の運送で儲ける一方、家業のうどん屋のほか薪、炭、青物などの販売を手広く営み財をなしたと伝えられる。幸吉が晩年、「三つ子の魂は祖父に育てられた」と述懐している。正規の教育は受けていないが、明治維新によって失業した士族の栗原勇蔵、岩佐孝四郎らに読み書きソロバン、読書などを習った。
③ 商才と向上心と社交性
早くから1杯8厘のうどんでは身代を築くのは無理と分かっていたようで、14歳で家業の傍ら青物の行商を始める。大きな目標を掲げる事で自分自身に課題を与え自らを鼓舞するところがあり、時として大法螺吹きといわれた。足芸(仰向けに寝て足の平で蛇の目傘を回す芸)の披露で、英国の軍艦・シルバー号へ青果や卵を売り込むのに成功した。また、マスコミを利用する点では今で言うヤラセにあたるような事も考え出し実行するような勇み足もあったともいわれている。
④ 真珠に到る助走路
1876年(明治9年)の地租改正で、納税が米納から金納に変わったのを機会に米が商売の種になるとみて青物商から米穀商に転換。1878年(明治11年)には20歳で家督を相続、御木本幸吉と改名する。同年3月東京、横浜への旅により天然真珠など志摩の特産物が中国人向けの有力な貿易商品になりうることを確信、海産物商人へと再転身した。海産物商人としての幸吉は自らアワビ、天然真珠、ナマコ、伊勢海老、牡蠣、天草、サザエ、ハマグリ、泡盛など種々雑多な商品を扱う一方、志摩物産品評会、志摩国海産物改良組合の結成などに参加、地元の産業振興に尽力した。その後、志摩国海産物改良組合長、三重県勧業諮問委員、三重県商法会議員、などを務め地元の名士になっていた。
⑤ 時代の転換期に
幸吉の飛躍の始まりは明治維新という時代背景がきっかけである。職業選択の自由、身分を越えた結婚が可能になり富国強兵のスローガンの下で海国日本の殖産興業政策により1882年(明治15年)、大日本水産会が創設された。1881年(明治14年)、結婚。妻・うめは当時17歳。鳥羽藩士族・久米盛蔵の娘で新しい学制の小学校とその高等科をでた才女であり、維新以前ではこの結婚は考えられなかった。1883年(明治16年)、父・音吉が54歳で死去。
⑥ アコヤ貝の養殖
世界の装飾品市場では、天然の真珠が高値で取引されており海女が一粒の真珠を採ってくると高額の収入が得られる事から、志摩ばかりでなく全国のアコヤ貝は乱獲により絶滅の危機に瀕していた。この事態を憂慮して1888年(明治21年)6月、第2回全国水産品評会の為上京した折、主催者である大日本水産会の柳楢悦を訪ね指導を仰いだ。幸吉は同年9月11日に貝の養殖を開始したが、真珠を生まない限り商品としての価値が低く経費倒れに終わった。この為発想を転換し「真珠の養殖」を最終目的に変え、その過程でアコヤ貝の生態を調べながら貝の養殖をすることで当初の目的が採算的にも果たされる事を計画。この目的の為に柳の紹介で東京帝国大学の箕作佳吉と当時大学院生だった岸上謙吉を1890年(明治23年)に訪ね、学理的には養殖が可能なことを教えられた。
⑦ 外国での養殖例
中国の仏像真珠(胡州珍珠)にみられるように古来、真珠を産する貝の中に鉛などの異物を入れ、人工的に貝付き真珠を作り出す試みは中国や欧州各地で行われていた。しかし、幸吉の情熱と周囲の協力体制という点での取り組みが結果的に勝っていた事になる。
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絶賛「今、なぜ二宮尊徳か」棚橋正光氏講演録(22)~経済とモラルを調和させる実践哲学

20.「尊徳の実践哲学」と「企業で実践」した例(2)
(2)豊田佐吉(自動織機、トヨタ自動車)
 
 豊田佐吉の父親「豊田伊吉」は「二宮金次郎」の教えを生活の信条としており、「豊田佐吉」もまたそれに帰依しました。
「豊田佐吉」(慶応3年1867年生まれ)は、機織(はたおり)機を「自動織機」に開発「日本のエジソン」と言われました。
  その後「自動車産業」に転進、現在の「トヨダ自動車」(’07年3月決算・売上高24兆円・純利益1兆6千億)の生産ラインの深部に「報徳仕法」が受け継がれています。
  世界語となった「カイゼン」は、戦後の日本の企業に改革をもたらした、「品質管理(QC)」と「報徳仕法」を合体させた、「最高傑作」といえましょう。
   さらに「報徳仕法」の「推譲」と合体させた「カンバン方式」は「定時・定点・定納」として、生産工場のみならず、「サービス業」にまで普及「セブンイレブン」が本家のアメリカを追い越した「画期的配送システム」にまで、
  普及発展しました。まさに「一円融合」(半円観:自分だけがよければではなく、一円観:隣人・すべての人々の喜びを希求する)「哲学」が根底にありました。
①生い立ち豊田 佐吉(とよだ さきち)1867年3月19日(慶応3年2月14日) - 1930年(昭和5年)10月30日)は、日本の実業家、発明家。豊田自動織機製作所の創業者。
②来歴・人物
遠江国山口村(現・静岡県湖西市)の農家に生まれた。父は大工だった。小学校を卒業後大工になり、発明の心が芽生える。明治23年(1890年)に東京での内国勧業博覧会にて外国製織機の設計を参考にして「豊田式木製人力織機」を発明。この「木製人力織機」は安価な木を多用して当時まだまだ高価だった金属類は必要最小限に抑えた為、当時主流だった外国産の機械より一桁安い価格で瞬く間に拡販した(この無駄を抑える発想は後の『トヨタ生産方式』の原点となる)。その後、かせくり機を発明する。
明治26年(1893年)にたみと結婚し、翌年には長男喜一郎が誕生した。明治29年(1896年)「豊田式汽力織機」を発明。明治30年(1897年)に浅子 と再婚し、明治32年(1899年)に長女愛子(のちに「トヨタ自動車工業」初代社長となる利三郎を養子にむかえる)が誕生。明治35年(1902年)に豊田商会を設立、今日のトヨタグループの礎を築く。藍綬褒章を2回受賞した。
なお、通説では大正13年(1924年)に「G型無停止杼替式豊田自動織機」を開発したとされるが、完成当時は三井グループの東洋棉花(後のトーメン、現在の豊田通商)系上海紡績のトップ黒田慶一郎(黒田慶樹の祖父)の助力を得て大正10年(1921年)に中国・上海租界に設立した豊田紡績廠の経営に力を注いでいる。なお、和田一夫著の『豊田喜一郎伝』(ISBN 4815804303)によると、G型無停止杼換式豊田自動織機は、実は喜一郎が開発を手掛けていたとされる。昭和5年(1930年)10月30日死去。享年63。
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絶賛「今、なぜ二宮尊徳か」棚橋正光氏講演録(21)~経済とモラルを調和させる実践哲学

19.「尊徳の実践哲学」と「企業で実践」した例
  各地で作られた「報徳社」をひとつにまとめようとした中心に、前述「岡田家」があり、明治末期には全国で「600余社」存在し、大正13年「大日本報徳社」として合同した。こちらは、精神主義的な色彩が強い。
金次郎の合理主義はむしろ「企業で実践」され今日まで継承されている。
とりあえず、そのうち10名を挙げれば次ぎの通りです。
(1)渋沢栄一(日本近代資本主義導入の先駆者)
(2)豊田佐吉(自動織機、トヨタ自動車)
(3)御木本幸吉(真珠王、ミキモト真珠)
(4)鈴木馬左也(住友財閥総理事)
(5)荘田平五郎(三菱財閥中興の祖)
(6)早川千吉郎(三井財閥形成の功労者)
(7)佐久間貞一(大日本印刷の創始者)
(8)鈴木藤三郎(日本精糖の創業者)
(9)大原孫三郎(倉敷紡績で報徳思想の実践者)
(10)松下幸之助(松下電器創業者、昭和21年PHP研究所創設)
以下10人のプロフィールをご紹介します。
(1)渋沢栄一(日本近代資本主義導入の先駆者) 
 「右手にソロバン、左手に論語」の名言を実行した人。
二宮尊徳の「道徳を忘れた経済は罪悪である。しかし経済を忘れた道徳は寝言である。」の格言を渋沢栄一は実践していました。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
渋沢 栄一(しぶさわ えいいち)天保11年2月13日(1840年3月16日) - 昭和6年(1931年)11月11日)は、幕末の幕臣、明治~大正初期の大蔵官僚、実業家。第一国立銀行や王子製紙・日本郵船・東京証券取引所などといった多種多様の企業の設立・経営に関わり、日本資本主義の父と呼ばれる。
正二位勲一等子爵。雅号は青淵。戒名は泰徳院殿仁智義譲青淵大居士。
生い立ち
天保11年(1840年)2月13日、武蔵国榛沢郡血洗島村(現埼玉県深谷市)に父・市郎右衛門、母・エイの長男として生まれた。幼名は市三郎。のちに、栄一郎、篤太夫、篤太郎。渋沢成一郎は従兄。
渋沢家は藍玉の製造販売と養蚕を兼営し米、麦、野菜の生産も手がける大農家だった。原料の買い入れと販売を担うため、一般的な農家と異なり、常に算盤をはじく商業的な才覚が求められた。市三郎も父と共に信州や上州まで藍を売り歩き、藍葉を仕入れる作業も行った。14歳の時からは単身で藍葉の仕入れに出かけるようになり、この時の経験がヨーロッパ時代の経済システムを吸収しやすい素地を作り出し、後の現実的な合理主義思想につながったとされる。
徳川慶喜の家臣・幕臣として
一方で5歳の頃より父から読書を授けられ、7歳の時には従兄の尾高惇忠の許に通い、四書五経や『日本外史』を学ぶ。剣術は、従兄弟の新三郎より神道無念流を学んだ。18歳の時(1858年)には惇忠の妹千代と結婚、名を栄一郎と改めるが、文久元年(1861年)に江戸に出て海保漁村の門下生となる。また北辰一刀流の千葉栄次郎の道場(お玉が池の千葉道場)に入門し、剣術修行の傍ら勤皇志士と交友を結ぶ。その影響から文久3年(1863年)に尊皇攘夷の思想に目覚め、高崎城を乗っ取り、横浜を焼き討ちにして、幕府を倒す計画をたてる。しかし、惇忠の弟長七郎の説得により中止する。
京都に向かい、一橋家家臣の平岡円四郎の推薦により一橋慶喜に仕えることになる。仕官中は一橋家領内を巡回し、農兵の募集に携わる。
主君の慶喜が将軍となったのに伴い、幕臣となり、パリで行われる万国博覧会に将軍の名代として出席する慶喜の弟徳川昭武の随員として、フランスを訪れる。パリ万博を視察したほか、ヨーロッパ各国を訪問する昭武に随行する。ちなみにこの時に彼に語学を教えたのは同行していたアレキサンダー・フォン・シーボルトである。帰国後もその交友は続き、アレキサンダーは弟のハインリッヒ・フォン・シーボルトと共に後に明治政府に勤めた渋沢に日本赤十字社設立など度々協力をするようになる。
パリ万博とヨーロッパ各国訪問を終えた後、昭武はパリに留学するものの、大政奉還に伴い、慶応3年(1867年)に新政府から帰国を命じられ、12月に帰国した。
大蔵省出仕~実業家時代大蔵省時代
帰国後は静岡に謹慎していた慶喜と面会し、静岡藩に出仕することを命じられる。しかし、フランスで学んだ株式会社制度を実践するため、仕官を断り慶応4年(1868年)1月に静岡にて商法会所を設立するが、大隈重信に説得され、10月に大蔵省に入省する。大蔵官僚として民部省改正掛(当時、民部省と大蔵省は事実上統合されていた)を率いて改革案の企画立案を行ったり、度量衡の制定や国立銀行条例制定に携わる。しかし、予算編成を巡って、大久保利通や大隈重信と対立し、明治6年(1873年)に井上馨と共に退官した。
退官後間もなく、官僚時代に設立を指導していた第一国立銀行(現:みずほ銀行)の頭取に就任し、以後は実業界に身を置く。また、第一国立銀行だけでなく、七十七国立銀行など多くの地方銀行設立を指導した。
第一国立銀行のほか、東京ガス、東京海上火災保険、王子製紙、秩父セメント(現太平洋セメント)、帝国ホテル、秩父鉄道、京阪電気鉄道、東京証券取引所、キリンビール、サッポロビールなど、多種多様の企業の設立に関わり、その数は500以上とされている。
若い頃は頑迷なナショナリストであったが、「外人土地所有禁止法」(1912年)に見られる日本移民排斥運動などで日米関係が悪化した際には、対日理解促進のためにアメリカの報道機関へ日本のニュースを送る通信社を立案、成功はしなかったが、これが現在の時事通信社と共同通信社の起源となった。
渋沢が三井高福・岩崎弥太郎・安田善次郎・住友友純・古河市兵衛・大倉喜八郎などといった他の明治の財閥創始者と大きく異なる点は、「渋沢財閥」を作らなかったことにある。「私利を追わず公益を図る」との考えを、生涯に亘って貫き通し、後継者の敬三にもこれを固く戒めた。また、他の財閥当主が軒並み男爵どまりなのに対し、渋沢一人は子爵を授かっているのも、そうした公共への奉仕が早くから評価されていたためである。
なお、渋沢は財界引退後に「渋沢同族株式会社」を創設し、これを中心とする企業群が後に「渋沢財閥」と呼ばれたこともあって、他の実業家と何ら変わらないのではないかとの評価もある。しかし、これはあくまでも死後の財産争いを防止するために便宜的に持株会社化したものであって、渋沢同族株式会社の保有する株は会社の株の2割以下、ほとんどの場合は数パーセントにも満たないものであった。
社会活動
栄一は実業界の中でも最も社会活動に熱心で、東京市からの要請で養育院の院長を務めたほか、東京慈恵会、日本赤十字社、癩予防協会の設立などに携わり財団法人聖路加国際病院初代理事長、財団法人滝乃川学園初代理事長、YMCA環太平洋連絡会議の日本側議長などもした。
関東大震災後の復興のためには、大震災善後会副会長となり寄付金集めなどに奔走した。
また、当時は商人に高等教育はいらないという考え方が支配的だったが、商業教育にも力を入れ商法講習所(現一橋大学)、大倉喜八郎との関係で大倉商業学校(現東京経済大学)の設立に協力したほか、創立者大隈重信との関係で早稲田大学、創立者三島中洲との親交で二松学舎(現二松学舎大学)、野田(大塊)卯太郎との誼で学校法人国士舘(創立者・柴田徳次郎)、井上馨に乞われ同志社大学(創立者・新島襄)の寄付金の取り纏めに関わった。また、商人同様に教育は不要であるとされていた女子の教育の必要性を考え、伊藤博文、勝海舟らと女子教育奨励会を設立、成瀬仁蔵らとともに日本女子大学校、伊藤博文との関係で東京女学館の設立に携わった。
渋沢と青い目の人形
また日本国際児童親善会を設立し、日本人形とアメリカの人形(青い目の人形)を交換するなどして、交流を深めることに尽力している。1931年には中国で起こった水害のために、中華民国水災同情会会長を務め義援金を募るなどし、民間外交の先駆者としての側面もある。
なお渋沢は1926年と1927年のノーベル平和賞の候補にもなっている。
道徳経済合一説
『論語と算盤』を著し、「道徳経済合一説」という理念を打ち出した。幼少期に学んだ『論語』を拠り所に倫理と利益の両立を掲げ、経済を発展させ、利益を独占するのではなく、国全体を豊かにする為に、富は全体で共有するものとして社会に還元することを説くと同時に自身にも心がけた。また、幕末に栄一と同じ観点から備中松山藩の藩政改革にあたった陽明学者山田方谷の門人で「義利合一論」(義=倫理・利=利益)を論じた三島中洲と知り合うと、両者は意気投合して栄一は三島と深く交わるようになる。栄一は」三島の死後に彼が創立した二松学舎の経営に深く関わることになる
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絶賛「今、なぜ二宮尊徳か」棚橋正光氏講演録⑳~経済とモラルを調和させる実践哲学

18.人生の真理は自然から学べ(その2)
(1)自然随順
「人間は自然の中の動物の一員である」と昔からいわれ「自然随順」という言葉を忘れてはならないと自戒を込めて口づさみます。

「自然随順」とは、「自然に親しみ、自然に学び、自然を慈しむこころ」と言われます。
「地球環境」「自然環境」「生態系」等の勉強が盛り上がり、テレビでも毎日どこかで取り上げ放映されています。

(2)大自然の限りない知恵に学ぶ
私たちの日常の社会で、「大自然の限りない知恵に学んだ物」があります。

①1870年エジソンが発明した電球のフィラメントは、日本の滋賀県「近江八幡」の近所の「竹」からです。
エジソンも自然が好きで「蟻の地下倉庫の探検をした」と自然探索をしていたいわれます。

② 「落下傘」は、「たんぽぽ」の種子がふわり・ふわりと浮かび飛んでゆくことからヒントをえました。

③飛行機の機体は「いかに軽くて丈夫」に作るか、ということで、自然界にないかということで、「蜂の巣」にヒントをえました。6角形で丈夫この上なし。

④最近では、新幹線の騒音防止策として、「パンタグラフの騒音防止」をJRの技術者が見つけだしたのが「ふくろうの羽毛」でした。
夜「他の鳥は獲物を狙っても、羽の滑空音で逃げられてしまうのに、ふくろうはなぜ」と「観察・分析・検証」の結果見つけ出し、現在「パンタグラフ」にとりつけています。

⑤ 「シネクティクス発想法」「いもずる式発想法」等発想法にも活用されています。

松丘容明 記
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絶賛「今、なぜ二宮尊徳か」棚橋正光氏講演録⑲~経済とモラルを調和させる実践哲学

18.人生の真理は自然から学べ(その1)

(1)「天道」と「人道」
 「天道と人道」は「釈迦もキリスト」もいっていますが「二宮金次郎」のは少しちがいます。
天地の合一を前提とした従来の東洋的な概念を打ち破り、自然と人間は分けて考えなければならないとした尊徳の主張。春夏秋冬があり、晴れたり、雨が降ったり、風が吹いたりといった自然の摂理から学ぶ姿勢を尊徳は重視しているが、その中に身を任せているだけでは、動物と同じになってしまう。家を建てて風雨を凌ぎ、蔵を建てて穀物を蓄え、衣服を作って暑さ寒さを凌ぎ、一年中安定した生活を送ろうとするのが人間の道なのである。そうした人間的生活を維持するためには社会道徳を守り、義務を果たす努力が必要だとも説いている。

「金次郎の天道」
・天然自然のまま
・人力ではどうにもならない
・善悪の区別がない
・一口に言って当たり前のこと

②「二宮金次郎の人道」
・人類共通の約束である
・人作・作為の道である
・善悪の区別がある
・中庸を要する
この考えから「天道自然の図・人道作為の図」や「根葉開闢の図」「四季循環の図」などで自然の摂理と人間の努力・創造を「円相」「一円融合」で説明しています。
まさに「エコ時代」の現代でもそのまま適応できそうです。

(2)「自然が示唆してくれるもの」
天保4年(1833年の夏の初め、「二宮金次郎像が宇都宮」の宿に泊まったときのことです。
宿の料理に「なす」が出てきました。
「初茄子か、これはうまそう」
「パクリ」
「うんー・・」
「この茄子は初物なのに秋茄子の味がする!こんなことでは今年の作物がちゃんと育つわけがない!うううむこれはきっと凶作のしるしだ、ぐずぐずしていると大変なことになるぞ。」

「飢饉に強い・稗や粟に植え替えろ」と指示しました。反発もありました。

しかし「二宮金次郎」の予言はピタリと当りました。

この年から関東・東北地方を中心に、凶作が続きました。
やがて凶作は全国に広がりこれが「天保の大飢饉」となりました。
沢山の餓死者がでましたが、「二宮金次郎」の言いつけを守って、飢饉に備えた「桜町領3カ村」からは餓死者がでませんでした。
そればかりか、隣村に「稗」などを贈って上げるほどでした。

有名な話です。
初茄子の味で、大飢饉を予見する」まさに「自然が示唆してくれるものに気づくことの大切さ」を人々に学ばせてくれました。
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絶賛「今、なぜ二宮尊徳か」棚橋正光氏講演録⑱~経済とモラルを調和させる実践哲学

17.後継者育成
(1)長男「弥太郎」「諱:尊行(タカユキ)」
•文政4年(1821年)「二宮金次郎」が桜町領に赴任したばかりのころ、息子「弥太郎」が誕生した。「弥太郎」は、父親につき従いその仕事を助けた。

•「二宮金次郎」の晩年には、「弥太郎」は正式の助手として、幕府に認知され、御普請役格見習とされた。

(2)「富田久助」「諱:富田高慶・とみたたかよし」
 「二宮金次郎」の側近「富田久助」「諱:富田高慶」は、もとはといえば相馬藩の武士で、相馬藩の財政逼迫と農民の窮状を救うために「二宮金次郎」の門を叩いたのが天保10年(1839年)25歳のときだった。

15年を費やした桜町領の改革は、すでに天保8年に終わっている。 「二宮金次郎」は50を過ぎている。有能な弟子というよりは、片腕となって役割を果たすのは、「二宮金次郎」が幕府に登用(天保13年1842年56歳)されて以降であった。そして、「二宮金次郎」の娘「フミ」と結婚する。

従って、少年「二宮金次郎伝説」のもとにになった「富田高慶」の「報徳記」の記述のうち3分の1は、彼自身現場に居合わせたわけではなく、弟子入りから69歳で「二宮金次郎」が没するまでの間に労苦をともにしながら耳にしたものをまとめたのだろう。

「報徳仕法」発展のために、「二宮金次郎」の実践記録は、現代に残るまで、膨大な資料として保存されている。 「富田高慶」の著書「報徳記」は明治10年(1878年)宮内省の侍従の手元に渡っており、明治天皇が興味を示したのだ

宮内省は明治16年(1883年)にそれを印刷発行。2年後に農商務省も印刷発行(和装綴)。23年(1890年)には活版印刷で大日本農会版として発行された。

翌明治24年(1891年)博文館より「幸田露伴執筆・二宮尊徳翁」を少年少女シリーズで出版。さらに明治26年には検定教科書。明治37年国定教科書に「二宮金次郎」が取り上げられた。

(3)「豊田正作」
小田原藩の役人で、「二宮金次郎」の桜町領再建策に反対した、武士が詫びをいれ、弟子入りした。

(4)「岡田佐平治・良一郎」父子
遠州から日光へ直接教えを請いに行き、明治維新後「良一郎」は衆議院議員に当選「信用組合」を創設。その子どもたちは「全国千社の報徳社」を結集に貢献したといわれている。

松丘容明 記
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絶賛「今、なぜ二宮尊徳か」棚橋正光氏講演録⑰~経済とモラルを調和させる実践哲学

16.「尊徳」「報徳仕法」(猪瀬直樹副知事著から引用)

(1)「尊徳」
  「二宮金次郎」は雅号をもたなかった。「尊徳」は「諱」(いみな:人の名を死後から言う名・尊称)である。「ソントク」ではなく「タカノリ」とよませた。
天保13年(1842年・56歳)幕府に登用され、翌年「二宮尊徳」と署名した文書を提出している。

(2)「報徳仕法」
  「二宮金次郎」の改革は、「報徳仕法」と呼ばれた。天保2年(1831年43歳)小田原藩主・大久保忠真が日光参詣の後「桜町領」に近い結城宿に泊まった。
「二宮金次郎」から「桜町領改革の報告」を受けた藩主・忠真は『汝の法は論語にある「以徳報徳」の実践といえる』と言った。その後「二宮金次郎」は、自分の方法論を「報徳仕法」と呼ぶようにした。

 「以徳報徳」の語源は、「論語・憲問編にあるが、「徳をもって怨みに報ゆれば如何」と、問われた孔子は、「何をもってか徳に報いん。直をもって怨みに報いん。徳をもって徳に報いよ。」と答えた。
怨みには「直」でよい、だが「徳」は超越的なものと考えられている。

「以徳報徳」すなわち徳をもって徳に報いるは、わかりやすそうにみえるが簡単ではない。
「二宮金次郎」の桜町領改革は、裏切られても、裏切られても、緻密に計画を立てながら続けられた。あの辛抱強さを、支えていたのが超越的「徳」であろう。相対主義では改革は続けられなかった。

松丘容明 記
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絶賛「今、なぜ二宮尊徳か」棚橋正光氏講演録⑯~経済とモラルを調和させる実践哲学

15.「円相図でみる二宮尊徳の思想」

「報徳仕法」の具体的実践項目の一つに「一円融合」があります。
そこで、その関連事項を整理すると次ぎのようになります。

(1)「円相・一円相・一円融合」
禅の世界では、「〇」は、「一円相」とか「円月相」などと言って、宇宙の究極の姿(相)を指しています。森羅万象、宇宙全体の姿、世界の究極の形を最も簡潔に表現すると円、つまり「〇」になります。
またこの「〇」は、完全無欠、満ちたりた状態、角のない円満という意味もあります。

(2)「一円観」
尊徳は、悩みを解く時や、心や考えを静める時に、あるいは,自己の考えを人に説明したりする時に、好んでこの「○」を用いました。
自分と対立する人、仕法を妨害する人、どんなに悪い人であっても、それを敵としたり退けたりしないで、自分と一緒に一つの○の中に包んで考える。包んで観る。あるいは、相手の側に立って考える、こう言う見方、考え方を「一円観」と言います。

(3)「半円見」「半円観」
万物は常に流動し、変化を続けて、決して静止することがありません。天と地、生と死、苦楽、吉凶、禍福、貧富、貸借、得失、日月、陰陽、昼夜、寒暑、春秋、冬夏、長短、高低、表裏、老若、男女、労使、明暗、プラスマイナス、等々あらゆる対立物も含めて、万物は互いに作用し合い、補い合いながら変動し、新しい形象、新しいエネルギーを作り出している。

・一方だけ、かたほうだけを見ていてはダメなのです。万物を統合的に見たり、考えたりしなければなりません。ところが、私達は、ややもすると目先のことだけに捉われ、もっと先のもの、向こう側のもの、隠れている物事をつい見落としがちです。

・自分の都合の良い方だけに執着したり、そうでない他の事を斥けようとしがちです。これでは全体を見たことにはならないのです。こう言うのを「半円の見」と言います。つまりこれが「半円観」なのです。

(4)「一円融合」
・またこの一つの円の中に収まること、並びに幾つかのものが融け合ったりして、より良いものになることの大切さを説いております。

・半円観に対するのが、一円観であり、尊徳はこの「一円観」に立つことの大切さを説いております。

・佐々井新太郎先生は、これを「一円融合」と言う言葉で表しております。

 松丘容明 記
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絶賛「今、なぜ二宮尊徳か」棚橋正光氏講演録⑮~経済とモラルを調和させる実践哲学

14.「心田開発の勧め」農民出身の「二宮金次郎」は当然「新田(農地)開発」をと思いますが、「二宮金次郎」は「心田開発がすべての始まり」と「心田開発の勧め」を第一に取り上げました。
「自立(律)への道は、すべては人の道理を説くことから始まる」そして
  「今日の幸せは昨日の 苦労のたまものと知れ」とし、前述「至誠」を上げています。
「至誠」とは真心であり、「我が道は至誠と実行のみ」(夜話139)という言葉の通り、尊徳の仕法や思想、そして生き方の全てを貫いている精神です。
そして、「至誠と実行だけが人を動かす」と教えています。
また前述「勤労」についても、「人は働くことによって、生産物を得て生きていくことができる。また働くことを通じて知恵をみがき、自己を向上させることができる」と説きました。
しかし、同時に当時の上司(お上)に対しても「勤労意欲を削ぐ」年貢の割付は行わないことを「桜町」で約束させるだけでなく、「勤労の成果が農民の懐に入る仕組みを作った。」のです。
「報徳仕法」は、まさに「理行合一」の見事なシステムで現代でも活用すべきシステムです。
松丘容明 記
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ケンサEXPO‘09

去る7月30日~8月2日まで・横浜市「パシフィコ横浜」で「ケンサEXPO‘09」が開催されました。
 NPOヒューレック研究会の草分け期、ご夫婦で受講、ミュージカルにも出演の「平岡工明氏」(ケンサEXPO‘09事務局)から、是非見学に来るようにお薦めがありました。
1.多数来場達成  
来場者多数を目標と聞き、平岡氏と「横浜キッズクラブ」に「親子連れ参加の陳情」に参りました。
  最終日の2日は、開場から多数参加、各検査は予約満杯の盛況多数来場に事務局の方々喜んでおりました。
2.講演会場満席
  毎日10時~17時まで、1時間毎に30分の健康講演会。
  日曜は、120席満席。50歳以上の男女が真剣に聴取、健康への関心の深さ漂ってきました。
3.展示ゾーン 
 「ケンサでみるからだ」「こどもとケンサ」「成人とケンサ」「中高年とケンサ」
  「夏休みの自由ケンサ」をはじめ「神奈川県の社会活動展示」
4.ワークショップ
(1)こどものワークショップ
  「心電計体験」「心エコー体験」「寄生虫顕微鏡体験」「血球顕微鏡体験」
(2)ケンサ体験
  「4Dエコー体験」(お腹の赤ちゃんの表情対面)「AED体験」(人形を使 
 用した心肺蘇生体験)
(3)フィットネス・コーナー
5.ケンサ体験ゾーン
(1)健康ケンサ体験コーナー
 「体組成測定」「血圧測定」「動脈硬化測定」「骨密度測定」「心電図痩躯亭」等等
6.参加者の感想 
 「もっと早く知って全部ケンサ・体験したかった。」「次回はいつどこで開催?家族・友人を連れてきたい」「セルフコントロールの時代を感じた」「平岡さんご案内戴き本当にありがとうございました。」
 松丘容明 記
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「いつも幸せな人の心のルール」出版記念祝賀会

8月の月例会 は 黒 岩  貴 先生の 「いつも幸せな人の心のルール」<「幸せ」を感じて生きれば「奇跡」を起こせる>の著書の出版記念祝賀をかね、8月1日(土)20時より「渋谷区リフレッシュ氷川」2階・会議室で開催されました。
1.初出版の経緯
はじめに、今次出版が初出版となった経緯の説明がありました。
今まで出版の機会は沢山あったが、初版2万部という「フォレスト出版」の熱意に、動かされたこと。
  一般には、初版3千部。しかも自分の買取が内「千部」等であるが、2万部を売るという出版社の熱意に感動したこと。
紀伊国屋新宿・八重洲ブックセンターはじめ大型書店では、売れ行きは好調で、ほとんどの書店で平積であり、Amazonでもジャンルで連日30位くらいをつけている状況であること。
 さらにサイン会も企画してくれ、既に5回実施今後も予定が入っていること。
 一同なるほど、なるほどと感服しました。
2.科学的・学術的な部分は削除
当初の原稿は、各項目の科学的・学術的検証・説明部分があり、恐らく倍以上の厚さになったと思われるが、全部カットされこと。
そこで今日の講演会はそのカットした理論的な部分を紹介すること。
ということで、プロジェクターを駆使し、分かり易く説明戴きました。
3.主要項目を紹介すれば次ぎの通りです。
・人生は繰り返している  
・あなたの心はコップ一杯  
・0点でも100点でもいい 
・楽しみも苦しみも積極的に経験する  
・どんな仲にも愛は存在する  
・あなたの「今」が、「来世」につながる
4.感想数々 
① 中学3年生の「ゆりちゃん」受講前に「学校の成績を上げるには?」と雑談でしていたこともあり、「成績を苦にしない方が成績が上がる」話に関心があるかと思いきや、『「100人100様、どんな意見であっても、その存在を認め、尊重することが大切」それがダイバーシティの考え方。に感動した。
これがあれば学校でも皆が仲良くなれる。』に一同ギャフン。
 黒岩先生のお話は中学生から、後期高齢者まで、分かり易く、心に残るお話ということが立証されました。
②講座の前に、小川博章先生から、『「輪廻転生」を生涯のテーマにしたい』、旨のお話しがあったところ、それをご存知ない黒岩先生のお話が「輪廻転生」から始じまり、こんな偶然があるものかと、顔を見合わせ「縁尋奇妙」のご縁を一同しみじみ味わいました。
③以下数々の感想が述べられ、高度な意見交換、先生のご助言などで盛り上がり、意義ある祝賀・懇親の場となりました。
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絶賛「今、なぜ二宮尊徳か」棚橋正光氏講演録⑭~経済とモラルを調和させる実践哲学

13.「積小為大」(小を積んで大を為す)
「二宮金次郎」は“金を貯めるコツ”や“人生において大成功をなす秘訣”について『積小為大』以外にないと言い切っている。
•人生における成功不成功の分かれ道は、その人が最後までやり遂げるか、途中で投げ出すかで決まる。どんなに小さくまた地味にみえても、日々の積み重ねこそ成功や目的完遂への最短距離であり王道だということをこの言葉で言い表している。
(1)「日記萬覚帳」(日記兼出納簿)   
「二宮金次郎」は18才(1804年・文化2年)の時、名主「岡部善右衛門」  
方に住み込みしているとき、日記兼出納簿である「日記萬覚帳」をつけはじめた。
この「日記萬覚帳」には、過去に遡って貸した金額を記入していた。
当時の金利は年10%~20%が相場であったところ、記録によると「二宮金次郎」は年率8%と低金利で、この低金利融資が「二宮金次郎」の武器になって行く。そして、世話になった叔父万兵衛にも「2両3分2朱」貸したことが記録されてりう。
   また「小田原宿」で売りさばいた「薪」の売上金もこの融資の元手となっていた。
(2)「若党」に迎えられ勉強も
  「二宮金次郎」は服部家の用人「関谷周介」にも融資していたが、「関谷周介」は「二宮金次郎」の頭脳明晰な才覚を見抜き「服部家」の「若党」として迎え入れ、殿様の息子3人が、藩の儒者のところに勉強に行くときの従者として、丁度よいと考えた。「二宮金次郎」はこの従者の時、部屋のそとで儒教の勉強をしたという有名な話がある。
   さらに「二宮金次郎」は、融資した相手の身の上話をよく聞いてあげ、高利で借りていれば、返済融資をし、低金利に切り替える。さらに返済し易いように、コスト意識をもたせるように諭した。
(3)「コスト削減が余剰を生む」 
前述「薪の効率化」と「煤が墨」で紹介の通り、女中にまで、目の前の「コスト削減」を実践させ、返済資金に充当させた。
「二宮翁夜話」に、「大きなことをしたいと思えば、小さなことを怠らず勤めるがよい。小が積もって大となるからだ。およそ小人の常として、大きなことを望んで小さなことを怠り、できにくいことに気をもんで、できやすいことを勤めない。それゆえ、ついに大きな事をしとげられない。」
「二宮金次郎」に「勤倹・節約」のイメージが強いのは、この部分だけが強調されてきたからだが、「二宮金次郎」の本質は、コスト削減によって生じた余剰をどう活用するかにある。
①子供の頃の菜種油の事例(5勺の種から7升の菜種を育て1升4合の菜種油)
②一家再興の田畑の買い戻し
③薪を売り、薪山を購入、融資資金の元金
等等単に「勤倹・節約」でなく新しい価値の創造で、まさに世界語となったトヨタの「カイゼン」(改善)と「人の期待(喜び)に応える」「カンバン方式」そのものです。 
松丘容明 記
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