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NPO法人ヒューレック研究会

NPO法人ヒューレック研究会のblogです

NPOヒューレック研究会「ワクワク2010」

(2010.5.31.号)
「戦場から女優へ」
5月度・月例会・特別講演録・講師 サヘル・ローズさん
第4章 公園生活
(4)2週間の公園生活

   私たちは、おばちゃんのお陰で2週間の公園生活から要約脱け出すことができました。
   一方で、私と母が一緒にいられる時間はめっきり減ってしまったけれど・・・・。
   というのも、母の仕事場が、東京・港区三田なので、電車を乗り継いで埼玉県志木市まで通うには、随分時間がかかります。
   さらに、住むところになったアパートが駅から遠く、会社を午後7時にでても、家につくのが10時頃なってしまします。
   一人でご飯をつくれないので、母を待っている間は、おばちゃんの家にお世話なっていました。
   学校の授業が終わると私は、下校する友だちを見送ってすぐに校舎のよこにある、給食の調理室に向かいます。おばちゃんたちが、給食の後片付けをしているのを、待っていました。
   私は、給食のおばさんたちにとても可愛がられて、幸せでした。
  あるときは、おばちゃんたちがお金を出し合って、「子供用の自転車」買ってくrwたのです。
(5)おばちゃんは命の恩人 
  帰る時間になると、自転車をこいでおばちゃんについていき、家に上がると、おばちゃんは、「サヘル、お風呂に入ってそれから勉強ね」と、先ずお風呂に入れられ、次に漢字のドリルです。
   湯船につかるお風呂は生まれて初めてでした。
   おばちゃんは、私たちの命の恩人です。もし、あのとき彼女に助けてくれなかったら・・・・。
   私たちは、現在どうなっていたのか、わかりませんだから、本当に感謝の気持ちで一杯です。
   でも、なぜ、あかの他人の私たちにここまですることができたのでしょう。
  私は、大人になって、おばちゃんに聞いてみました。
  「ねー、どうして私たちを助けてくれたんですか?」
  彼女は、ふっくらとした顔に笑みを浮べ、こう答えてくれたのです。
  「あの頃私は離婚していて、一人で娘をそだてなければならなかっ
 たの。あなたたちをみて、とても人ごととは思えなかった。だからどうしても、何かをしてあげたいと思ったの」
(以下次号に続く)
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NPOヒューレック研究会「ワクワク2010」

(2010.5.30.号)
「戦場から女優へ」
5月度・月例会・特別講演録・講師 サヘル・ローズさん
第4章 公園生活
4.給食のおばちゃん
(1)小学校は生活の場
  私にとって、小学校は大切な生活の場でもありました。
  なぜなら、給食があるから。
  公園では、ご飯食べることが全くできず、母は、工場で、だされるおにぎり一つが1日の食事の全てでした。
  私も、学校で出される給食が、唯一の食べ物だったのです。いつも、お腹をすかせていた私のおかわりの量は、普通じゃなかった。
(2)給食のおばちゃんに打ち明ける 
 公園での生活が2週間を過ぎた頃、そんな様子を見かねた、給食を作ってくれるおばちゃんが、心配して、声をかけてくれました。
  「あなたは、いつも給食を沢山食べるね、それに、毎日、同じ服着ているし、何か困ったことがあるんじゃないの?」
   私は、習いたての日本語で、正直にそのときの暮らしを打ち明けました。すると、給食のおばちゃんは、
   「そうなの、それは大変ね。こんど、お母さんと一緒にうちにいらっしゃい」と、言ってくれたのです。
   数日後、母と私は、かの女の家を訪ねました。
   私の通訳を通して、おばちゃんは、涙を流しながら、母の話をじっと聞き入っていました。
(3)母の勤め先を探す 
  「公園で寝泊りするなんて、サヘルちゃんのからだによくないわよ。私が安いアパートを探して上げるから、そこに住むようにしなさい。そうなると、今の仕事の収入では家賃が払えないので、何か別の仕事にしないとだめね。日本語がわからないから、なかなか難しいけれど、そうね、ペルシャ語が話せるものがいいわね」
   そう言うと電話帳を持ってきて調べ始めました。やがて、
  「ペルシャ絨毯の会社があるけど、これなんかどう?」
  「それなら私にもできそう。たぶん、社長はイラン人でしょうから、言葉の心配もないはず。」母は喜びました。早速おばちゃんが会社に電話をかけ、面接のアポイントまでとってくれました。
  「直ぐに、面接に来て欲しいそうよ。その日は、サヘルちゃんは、うちで面倒見てあげるから、これを持って行ってきなさい」
   と言って、会社のある、東京・三田までの往復の交通費を握らせてくれたのです。
   面接の日の夕方、母は明るい顔で帰ってきました。
  「合格しました。やはりイラン人の社長さんでした。母国語なので、気持ちを伝えることができてよかった」」
  (以下次号に続く)
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NPOヒューレック研究会「ワクワク2010」

(2010.5.29.号)
「戦場から女優へ」
5月度・月例会・特別講演録・講師 サヘル・ローズさん
第4章 公園生活
1.公園の土管の中が住みか
 
 行き場もなく、あるスーパーに入った私たち。
  閉店までいたものの、もう戻る場所もなく、とぼとぼと歩くと、ある公園にたどりつきました。その公園は広く、ベンチや滑り台もあって、滑り台の下はコンクリ-ト製の大きな「土管」になっています。
 中に入ると外から見えにくく、比較的あたたかいので、そこで、母と過ごすことになりました。
  母が土管の壁にもたれて座り私を膝の上に乗せ、私は、母に抱かれ 
 たままの姿勢で眠ったのです。
  こうして、この日から私たちの公園生活がスタートしました。
2.小学校への通学は、公園から 
 すでに9月になっていたので、小学校の2学期が始まっていました。
  朝、土管の中で目を覚まし、公園の水道で顔を洗って私は登校、母も工場へ仕事に出かけていきました。そして、夕方になると、2人は公園に帰ってくるのです。
  雨の日はつらかった。土管の中に水が入ってくるので、近くの図書館に避難するのです。そして閉館時間の夜になると、公衆トイレに入り雨のやむのを待つのです。
  近所の子どもとも遊び、公園がすっかり、「自分の家」になっていたのです。近所の人々も皆親切で、御菓子なども頂きました。
3.校長先生とマンツーマンの指導  1・2限目の授業をみんなと一緒に受け、その後3限目からは、校長室に行って校長先生と1対1で、日本語の勉強をするのです。
  校長先生の前に座り、「漢字」「平仮名」「片仮名」のドリルを始めるのです。校長先生とのマンツーマンの指導で、結構早く書けるようになり、1カ月後には、「縄跳び」という題名の作文を書きました。
  お陰で、しゃべる方はクラスの友だちや先生と普通に会話できるようになりました。
  言葉の全く通じなかったイラン人の私をすんなり受け入れ、親身になって面倒を見て下さった、校長先生や、学校の人たちには、本当に感謝しております。小学校が私たちを救ってくれたのです。
 (以下次号に続く)
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NPOヒューレック研究会「ワクワク2010」

(2010.5.28.号)
「戦場から女優へ」
5月度・月例会・特別講演録・講師 サヘル・ローズさん
第3章 日本に来て

(前号から続く)
3.決断  母は、言いました。
  「私は意を決して、直接、彼と話し合った。私はここにいるべきな 
 の?それとも出ていったほうがいいの?すると彼はこう言ったの。
・・・大学に好きな子がいる。その子と結婚したいんだ。だから今
週の日曜日までに出ていってくれないか。日曜日が過ぎたら鍵は替えるから・・・」
 後に、母からその話を聞かされて私は彼を許せなかった。
 期限の日曜日の朝、彼が出かけると、母は、私にたずねました。
 「私は出て行くけど、サヘルはどうする?私と一緒に行く?それともここに残る?」
 孤児院を出るときもそうでしたが、母は、どんな場面でも選択肢を与えます。これまで強制的に何かをさせられたことは、一度もありません。いつも、「あなたはどうする?」と聞くのです。
 私の返事は決まっていました。「ママと一緒がいい」
 「ここにいれば、食べていけるのよ。でも、私と来ると住む場所もないし、食べるものも無い、それでもいいの?」
 私は、もちろん「うん」
 母と私は、彼のアパートを出たのです。
(以下次号に続く)
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NPOヒューレック研究会「ワクワク2010」

(2010.5.27号)
「戦場から女優へ」
5月度・月例会・特別講演録・講師 サヘル・ローズさん
第3章 日本に来て

(前号から続く)
2.フィアンセの豹変
(1)彼の態度が変わる
   
1週間が経ち、日本の生活にも慣れ、ようやく落ち着いたころ・・・。彼の態度が変わり始めたのです。きっかけ は、私でした。
   母は、仕事から帰宅する時間がどんなに遅くなっても、ご飯の用意をし、私たち3人は、一緒に食卓を囲むのですが、ここで、私は、いつもの癖がでてしまったのです。それは、食べ物を目の前にすると、がっついてしまうことです。なぜなら、孤児院では、食事の時間はいつも、競争だったから、その状況で育った私は、この習慣をなかなか直すことができなかった・・・。
   その行為を彼は、「どうしてこの子は、いつも貪るように、汚く食べるんだ」と、とても嫌いました。
   ゆっくり食べなくてはいけない、ということはわかっていたのですが、空腹なので、早くなってどうしてもがつがつしてしまう。それが、かれには耐えられなかった。やがて、彼は、私に手を挙げるようになったのです。
(2)暴力のエスカレート
   しつけるつもりか、私が食べ物に手を出そうとすると、私の手を思い切り叩いたり、ときには、熱したスプーンを足や背中におしつけたりして、火傷の痕は今も残っていて、これを見るたびに凄く嫌な気分になります。
   行為はエスカレートしていきました。叩かれて私が泣き叫ぶと、そのまま風呂場に入れられて、一晩中出してもらえなかったことも・・・。
(3)母が頼んでも 
 イランの女性の立場は、男性に対して弱いのです。母には、どう  することもできなかった。今も涙を流しながら、そのときの様子を話してくれます。
 私は、必死になって、許してあげるよう彼にお願いしたのよ。でも、だめだった。
  夜、かれが寝静まったころを見計らって、私は、風呂場のドアを開け、あなたを抱えあげました。も、ここで、3人で暮らすわけにはいかない、と思ったけれど、私には日本の友だちがいないし、両親に電話をかけるわけにもいかない。相談する人がいなくて、本当につらかった。
  なぜ、彼が突然、暴力を振るいはじめたのか・・・・。
  彼が、私を、そこまで嫌った本当の理由はわからないけれど・・。
  実は、別の理由があったのです。
(以下次号に続く)
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NPOヒューレック研究会「ワクワク2010」

(2010.5.26.号)
「戦場から女優へ」
5月度・月例会・特別講演録・講師 サヘル・ローズさん
第3章 日本に来て

(前号から続く)
1.日本でのスタート
(1)成田空港から埼玉県志木市へ
 
 成田空港に着いて、イランよりずっと綺麗で、近代的なので、びっくりしました。到着したときは、真っ青なそらで、とても暑かったことを覚えています。
  到着ロビーで、フィアンセが私たちを出迎えてくれました。
  彼の顔は、写真で知っていただけで、実際に会うのは初めてで、私は少し緊張して、挨拶をしました。やさしそうな笑顔が印象的でした。
  3人で、電車を乗り継ぎ、埼玉県・志木市にある、彼のアパートに到着しました。
  荷物はほとんどなかったので、そのまま部屋において、近くのスーパーに食材を買いに行き、母が晩御飯をつくり・・・・。
 こうして、3人の生活が始まりました。
(2)1週間は平穏な暮らし
 ①彼のアパートは6畳1間
   彼のアパートは、ユニットバス付の6畳1間でした。小さなTVとビニール製の洋服ケースが部屋の隅にぽつんとおいてあるだけの部屋で、それまで住んでいた、豪華な家との余りのギャップに私はびっくりしました。
   ベッドなどは勿論なく、絨毯のうえに直かに布団を置いて寝ていました。
 ② 小学校には直ぐ入学
   日本に来て最初にやったことは、私の入学手続き。来日の翌日、早速近くの小学校に出向き、手続きをすませました。彼があらかじめ所定の書類を用意してくれていたので、夏休みでしたが、私は、スムースに小学校に入学することができたのです。
す。
 ③ 母は仕事に
   彼は、クルマの販売を仕事にしていましたが、一方で大学にも通っていて、私たちが来日して、2日目に母にこう頼んできたのです。
  「大学に集中したいので、代わりに働いて欲しい。大学を卒業できれば、いい仕事に就けるし、そうしたら幸せにしてあげる」
   母は、日本語が全くできないので、仕事をするつもりはなかったのですが、彼の頼みなので、働くことにしました。
 ④ 質素だが幸せな暮らし
   日本にきてからの暮らしは、イランに較べると、かなり質素でしたが、それでもずっと幸せ、私は日本での生活に満足していました。
   ときどき、3人で手をつないで、散歩したり、来日1週間は、両親のいる家庭を体験できて本当にうれしかった。
  (以下次号に続く)
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(2010.5.25.号)
「戦場から女優へ」
5月度・月例会・特別講演録・講師 サヘル・ローズさん
第2章 私のところへ来る?

(前号から続く)
9.イラン出国
(1)頼みの綱「母のフィアンセ」
 
 母の心の傷は、少しづつ癒されてきましたが、一方両親との溝は深まるばかりでした。そんなとき支えになってくれたのが、日本にいるフィアンセでした。
  彼は、ときどき電話をかけてきて、母と話をしていました。
  ときどき私も電話に出て「ハジメマシテ」「コンニチハ」など、日本語のいくつかを、教えてもrったことがあり、その時のwたしの印象は、日本語を教えてくれる感じのよいおじさんだなぁ・・という程度のものでした。二人が深刻に話し合っていることなど、全く気づきませんでした。
  しかし、家族と疎遠になってしまった母にとって、最後にたよることができる「頼みの綱」がフィアンセだったのです。
  母がそこまで追い詰められていたなんて・・・・。
  経済的にも苦しくなり、そのことを彼に打ち明けると、そんなにつらいのならこちらに来てはどうかと誘われたのです。
  母は、悩んだ末、イランにいても両親から冷たくされるのなら、いっそ彼の待つ日本に行ったほうが幸せになれるかもしれない、と思ったそうです。
(2)「私は止めないよ」の一言で決心 
 それでも母は、両親のことを思うと、フィアンセの提案に最後まで乗り気では、ありませんでした。
  しかし、とりあえず飛行機のチケットは買ったのです。内心ではもちろん、もし両親と仲直りができて、日本に行くことを止めてくれたら、いつでも飛行機をキャンセルするつもりでした。
  しかし、出発の2週間前になって、母がおばあちゃんに電話をして、「再来週の木曜に出発します」と告げたとき、おばあちゃんが、「行くのなら私はとめないよ、勝手にすればいいじゃない」と言われ、母はかなりショックを受けたそうです。この電話で、母は、日本にゆくことを決心したのです。
(3)1993年8月12日午後8時出発
  出発の日、母は「家族の誰かが引き止めにきて欲しいと願って、最後まで出発ロビーに残っていたが、誰もきてくれなかった。飛行機の窓越しにずーっと両親の姿を探したが、何も見えなかった」母は、大粒の涙を当時の様子を語ってくれます。
  私が孤児院を出て2年後の1993年8月12日午後8時私したちを載せた飛行機は日本に向け、イランを出発しました。
(以下次号に続く
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(2010.5.24.号)
「戦場から女優へ」
5月度・月例会・特別講演録・講師 サヘル・ローズさん
第2章 私のところへ来る

(前号から続く)
8.家族との断絶
(1)祖父母の豪邸
  祖父母の家は、7つのベッドルームに、3つのリビングをもつ豪邸で、母のアパートから10分位のところにありました。
  しかし、母は私をすぐには連れていかず、しばらくたってから、私たちは祖父母の家を訪ねました。その時の様子を母は今でも辛そうに語ります。
  「いつまでも内緒にしておくわけにいかなかったの、家に連れて行ったら、おばあちゃんが、あなたを見て、この子誰の子と聞いたので、私の子です、といったらびっくりして、そのあとは、黙ったままで、何も言わなかった。その後おじいちゃんが帰ってきたけれど、一言も口をきいてもらえなかった。」
(2)「サヘル」の命名は、おばあちゃん
  私の名前の「サヘル」はおばあちゃんがつけてくれたのです。
  母がおばあちゃんに名前をつけて欲しいと頼み、おばあちゃんが初めて私を見て、「この子は静かで、すごく落ち着いた子だね、サヘルなんかいいんじゃない?」
  「サヘル」とは、アフリカのサハラ砂漠の南縁を東西に延びる乾燥地帯のことで、「静か」と言う意味があります。
  また母は、バラが好きなので、セカンドネームを「ローズ」にして「サヘル・ローズ」という名前が誕生しました。
(3)大事件 
 母は、シンガポールで、イランのアクセサリーなどを販売する仕 
  事をしていて、友人の男性に、仕事を手伝ってもらっていました。
   その男性がイランに帰国すると、時々家に遊びにきていました。
  ところが、イランでは、未婚の男女が家にいることは、タブーとされているので、そのことに気づいた「おばあちゃん」は、私に、好きな「アイスクリーム」を食べさせてくれながら、誘導質問をしてきました。
  「シンガポールから来ているお母さんの男性のお友だちがいるでしょう。知っているでしょう・・・・」といくつかの質問をされ、アイスクリームの美味しさに気をとられ、みな答えてしましました。
  おばあちゃんは、私を連れ、母の家に来て、いきなり母に、
 「どういうつもりなのよ!あなたなにやってるの!家の恥になることばかりやって!サヘルから全部聞いたわよ・・・」
 これが契機で、母は、親からの仕送りストップ、出入り禁止になってしまいました。
(以下次号に続く)
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NPOヒューレック研究会「ワクワク2010」

(2010.5.23.号)
「歌って感じてつながろう!」
~声を出すことの楽しみ方~
第3回レッスン「充実感に参加者感動」

昨22日(土)午後6時~8時まで、「日本橋社会教育会館」音楽室において、「カサノボー晃(ヒカル)先生」のご指導により、本年度第3回「歌って感じてつながろう!」(ヴォイス・トレーニング)が開催されました。
1.素晴らしいご指導  
「カサノボー晃先生」には、昨年度のミュージカル公演に際し「歌 
 唱指導」を戴き、当時の参加者が、唄うことの楽しさを体感し、皆、本年も引き続き「ミュージカル」に参加したいと表明されております。
  しかも、その中の数人は、「カラオケ」は勿論、人前で唄ったことがない方もおり、本年のレッスンにも、第1回から参加されております。
  そのご指導法の一端をご紹介しますと、唄えない人に注意しないのです。みなで一緒に発声をしているうちに「声」がでてきますと、「凄い」「できた」と全員で達成感を味わいます。
  小学校1年生の女の子も、最初のうち遠慮していたのが、立派に大人と混じって合唱し、褒められ、「練習に参加したい」と自分から言い出し連続参加されました。
  今回初参加の方々も、知らぬ間に歌え、体から歌えたとその充実感に感動しました。
2.講師:カサオノボー晃先生のご紹介
   1994年に音楽座に入座、1996年にステップスに入団。
   2005年に退団し、その後、オフィスルゥの所属となる。
   歌手・俳優・表現者。ミュージカルを中心に活動している。その 
   他、独特なキャラクターを創り出し、芝居・歌・ダンスを融合させたソロライブも展開中。
また、振付師・アーティストの香瑠鼓と共に即興パフォーマンス、障害者との(100)ワークショップなど、身体と声を使った新しい表現活動をしている。
歌唱指導・ボイストレーナーとしても活動中。クラシカルなものからスタンダード、ポップス、ソウル、ロック、ニューウェイブまで幅広い音楽性を持つ。
2009年3月に自身初となる舞台の演出も手掛け、好評を得る。
3.第4回のレッスンは6月26日(土)午後6時から
  日本橋社会教育会館・7階・講習室で開催されます。
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NPOヒューレック研究会「ワクワク2010」

文字色(2010.5.22.号)
「戦場から女優へ」
5月度・月例会・特別講演録・講師 サヘル・ローズさん
第2章 私のところへ来る?

(前号から続く)
7.小学1年生
(1)成績はトップ 
 学校は家から20分くらいのところにあり、校舎は共有ですが、男女は別々の教室で勉強することになっていて、休憩時間だけ、一緒に校庭で遊ぶのです。
  テストでは、どの科目もほとんど満点で、1クラス20人くらいいたのですが、常にトップ。母に成績を見せると、とても喜んでくれます。私は、母のうれしそうな顔を見たかったので、頑張って勉強したのかもしれません。
(2)学芸会では司会を務める
  学芸会では、司会を名乗りでて、務めました。その姿を母に見てもらえたのが、とてもうれしかった。そして最後に母から「あなたは、自慢の娘よ」と言ってもらえたことを、今でもよく覚えています。
  でも、、私はまったくいい子じゃなくて、ほんとうに、やんちゃだったので、kl母は、そうとう苦労したにちがいないのです。
(3)危険を知らない子
  私は、保護された孤児院からいきなり自由な世界にとびだしたので、危険というものをすぐに理解できなかった。
   たとえば、下校時は、まっすぐに帰宅することになっているのですが、一人でバザールに行ったり、知らない路地裏を歩いたり。
  イランでは、子どもが一人で行動することなど、ありえないことです。しかし、私は学校から帰宅する時間が2・3時間も遅れることもたびたびで、そんなとき母は、家の前で、ずーっと待っていてくれたのです。
(4)孤児院で身についた習慣 
  孤児院にいると、生きて行くためには、競争に勝たなければならないので、どうしても自分本位になります。それを修正することが、生きていくうえで必要なのだ、母はよく言っていました。
  「自分ばかりでなく、周囲にまず気を配りなさい。人のために何かをすれば、やがて自分にも還ってくるのです」
   私は、何が正しく何が間違っているのか、判断できなかった。
   そんな私に、ものを大切にする心、人を思いやる気持ち、などを、一つ一つ教えてくれたのが母です。
(以下次号に続く)
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NPOヒューレック研究会「ワクワク」2010」

(2010.5.21.号)
「戦場から女優へ」
5月度・月例会・特別講演録・講師 サヘル・ローズさん
第2章 私のところへ来る?

(前号から続く)
6.お城のようなアパ-ト  
バザールで買い物や、食事をした後「フローラ」の住まいに到着しました。
  クルマから降りた私が見たものは、絵本によく出てくるお城のよう 
 な家。高級住宅地にある、ははのアパートは、大理石の真っ白な建物 
 に、プール付き。3つのベッドルームにリビングダイニングで、広さは220m2。
  どきどきしながら家の中に入っていくと、窓のわきにはベッド、タンスとちいさなテーブルが置いてある八畳くらいの私専用の部屋が、ちゃんと用意sれていたのです。
  へやには、人形やおもちゃがたくさん!
  私は、あまりに大きな部屋に戸惑いました。
  だって、それまでは、ベッドの上が自分の「部屋」だったのに、急にこーんな広いところが、全部私の部屋になるなんて、もう、どうしたらよいのか・・・・。
  最初の頃は、あまりの広さに落ち着かず、部屋の隅っこで遊んでいましたが、しばらく経つと、この新しい環境にも慣れてきました。
7.小学1年生
  6歳になり、私は小学校に通うようになりました。
  ピカピカの1年生です。
 (以下次号に続く 

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NPOヒューレック研究会「ワクワク」2010」

2010.5.20.号)
「戦場から女優へ」
5月度・月例会・特別講演録・講師 サヘル・ローズさん
第2章 私のところへ来る?

(前号から続く)
5.孤児院を去る日
(1)「これからあなたのお母さんよ」
 
 暑い夏の日、「フローラ」が面会にきました。そして、やさしく、こう言いました。
  「今日からうちにおいで、私は、これから、あなたのお母さんよ」
  ついに私は、「フローラ」の娘になったのです。
  私はうれしくて、うれしくて、この気持ちをどう表現したらよいのかわからなかった。二度と離れたくないという思いで、「フローラ」に、じっとしがみついていました。
  「え、ほんとうに?ほんとうに私のお母さんになってくれるの?」
  「そうよ、さあ、これを着て一緒に帰りましょう」
  そして、残っている友だちにお別れを告げました。
  うれしい反面、自分だけ引き取られ、新しい洋服も買ってもらえて、これで、ほんとうによかったのかな、という複雑な心境のまま、私は孤児院を去りました。  
(2)なにもかもが別世界
  「さあ、どこにゆきたい?」と、母が聞いてきたけれど、わたしは、外のことは、何もしらないので、「どこでもいいよ」と答えると「じゃー、バザールにゆきましょう」ということになって、母の車に乗ろうとしたとき、私は「ドア」の開け方すらしりませんでした。そんな私を後部座席に乗せ、バザールに向かいましたが、クルマのなかで私はおおさわぎ。
   挙句のはてに、気分が悪くなって、吐いてしまいました。
  それまで吐いた経験がなかったので、ちょっぴりびっくりしました。
  クルマの窓から見る景色は、なにもかもがはじめての体験で、別世界でした。
(以下次号に続く)
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(2010.5.19.号)
「戦場から女優へ」
5月度・月例会・特別講演録・講師 サヘル・ローズさん
第2章 私のところへ来る?

(前号から続く)
4.「私の子どもになる?」
(1)人生を大きく変えた一言
  
2カ月後「フローラ」が突然現れました。興奮のあまり私は、またまた彼女に飛びついて、その間に起きたことを し始めました。
  すると突然、彼女は私を膝から下ろし、真剣な顔をして私の目をじっと見てこう言ったのです。
 「ねぇ、わたしの子どもになる?」私は即答しました。「うん、なる」
  無意識のうちに、こう答えた自分にびっくりしました。この一言が、わたしの人生を大きく変えたのです。
(2)階級の高い裕福な家庭に育った「フローラ」  
「フローラ」は、独身で若く、階級の高い裕福な家に育ちました。そんな彼女にとって私を引き取るということは、なまやさしいことではなかったはず。大きなリスクを冒してまでの決意には、相当な覚悟が必要だったこと、そしてこの2カ月間にさまざまな困難を解決して行ったことを、のちに聞かされました。
(3)「フローラ」の両親は反対  
「あなたを救出したとき、あなたはちょっと目をあけて私のことを、ママと呼んだでしょう、そのときわたしの心は決まっていたのかもしれない。実はね、小さいころから、大きくなったら孤児を養子にしたいという夢があったの。でも、その話を以前、母親にしたら、あなたがそんなことをする必要がどこにあるの! と、ひどく叱られたことがあって、それで、あなたのことを両親に言うことができなかったの。」
(4)「フローラ」が本当の「ママ」 
 「フローラ」の父親は、建設会社を経営していて、一家は、誰でもがその名を知っている資産家です。「フローラ」は両親を説得するところから始めようとしたのですが、独身女性の長女が突然孤児を育てたいと言ってきたら、どんな家庭の親でも反対するのが普通です。
  「フローラ」は、内緒で手続きを進めたのでした。
「親に相談したら反対されることは、わかっていましたから、それに私には、説得する時間がなかった。なぜなら、孤児院の規則で、子どもたちは、6歳になったら別の施設に移動させられると聞いていたから、6歳になろうとしているあなたを、1日でも早く引き取ろうと思ったの」
  私の夢がまさか、現実になろうとは思ってもみませんでした。
  「フローラ」が本当の「ママ」に・・・。 
  (以下次号に続く)
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(2010.5.18.号)
「戦場から女優へ」
5月度・月例会・特別講演録・講師 サヘル・ローズさん
第2章 私のところへ来る?

(前号から続く)
3.あの人との再会
(4)ある日を境に来なくなった「フローラ」  

  数日後、約束通り彼女はたくさんのお土産を抱えてやってきました。
  その後はすくなくとも1週間に1回は、新品の洋服や靴、おもちゃ、イチゴジャムなどの食料品を持って訪ねてきてくれたのです。
  しかし、私にとってお土産よりも「フローラ」と話せる時間のほうが何倍もうれしかった。待っている間に募った寂しさは、会ったとたん、いっぺんに消えてしまいました。それほどまでに、彼女は、大切な存在となっていたのです。
  面会時間は40分、帰る時間になると、「離れたくないよ」と「フローラ」を困らせました。
  面会に来てくれるのは、私だけで、友だちからうらやましがられました。
  ところが、ある日を境に、「フローラ」は、孤児院にまったく来なくなりました。私はその理由がわからず、待っても、待っても「フローラ」が来てくれないので、毎日泣いていました。
(5)里親を断る
  そんなとき、はじめて私の里親になりたいという夫婦が現れのです。
  しかし、私は「ママじゃなきゃいやだ」といって拒否しました。
  私は、「私だけのママ」をまちつづけたのです。
 (以下次号に続く)
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(2010.5.17.号)
「戦場から女優へ」
5月度・月例会・特別講演録・講師 サヘル・ローズさん
第2章 私のところへ来る?

(前号から続く)
3.あの人との再会
(1)1年後の再会

 孤児院に入って1年余りが経ち、私は5歳になりました。
  ある日の午後「あなたに会いたがっている人がいますよ」と言われ「一体、誰なのだろうと思いながら、面会場 に 向いました。なかに入ると一人の女性が養育係と話をしていました。
 あれ?この声どこかで聞いたことがらう!もしかして・・・。
そう思いながら近づくと、その女性が振り返りました。
そこにいたのは、瓦礫のなかに埋まっている私を発見してくれた命の恩人、「フローラ」です!
 私はうれしさのあまり、ダッシュで駆け寄って抱きつきました。
どう表現していいのかわからない。それくらい、すごく、すごく、うれしくてたまりませんでした。
 もう離れたくない・・・。そんな気持ちで一杯になり、しばらくギューッと抱きついていました。それから膝の上にのっけてもらいましたが、なにを話していいのかわからなかった。
「フローラ」はしがみついている私にいいました。「あなたに会いたかったのよ。元気だった?大丈夫なの?」
私は精一杯の笑顔で、「うん、大丈夫だよ。楽しいよ。『ママ』はどうしていたの?」そとき私は彼女のことを、無意識のうちに「ママ」と呼んでいたのです。
「シンガポールに行ったりしていたのよ。まだここにいたのね」
(2)テレビ・コマーシャルを見て
  彼女は、私がおかれている状況を知っていました。
  実は、経済状況の悪化で、孤児の数が急増したものの引き取り先がなかなか見つからず、孤児院がパンク状態に な っていたため、イラン政府が、里親探しのテレビ・コマーシャルを製作し、ながしていたのです。この孤児院からも10人が出演し、最後に私が映され、「親を探がしています。私たちをもらってください」というセリフで終わるのですが、そのコマーシャルを「フローラ」が見ていたのです。
 「この、テレビであなたを見たのよ。それで、まだ。孤児院にいると知ってここに来たの」
  私は嬉しさのあまり、孤児院での出来事を思いつくままに話しました。「フローラ」は、私の話を優しく聞いてくれました。
(3)「今日連れていってくれる・・・」  
「フローラが帰ろうとしたとき、咄嗟に私は、「今日、連れて行ってくれるの?」とききました。
  彼女は私を見て「ごめんね、それはできないの」
  私は悲しくなって、なきながら「フローら」にしがみつきました。
  「嫌だ、はなれたくない。お願い。一緒に連れて行って・・・」
  しかし、フローラは、わたしの手をとって「また、すぐにくるから」 
 と穏やかな笑顔でいい、帰っていきました。
(以下次号に続く)
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NPOヒューレック研究会「ワクワク」2010」

(2010.5.16.号)
「戦場から女優へ」
5月度・月例会・特別講演録・講師 サヘル・ローズさん
第2章 私のところへ来る?

(前号から続く)
2.決戦は金曜日 
 孤児院では、1週間に1回、休日となる金曜日に子どもを引き取りたいという夫婦を招いて「オーディション」が開催されます。イランではどうしても子どもができない夫婦に限って孤児院の子と養子縁組が認められるので、金曜日になると夫婦が養子にしたい子どもを探しにやってきます。
  そのような夫婦は年配の人たちが多く、誰もが優しそうな、穏やかな顔をしていて、本当に自分たちの子どもとして育てようとする気持ちが伝わってきます。
  見学にきた夫婦が帰ると、決まって何人かが孤児院からいなくなることに私は気づきました。
  私たちは、毎週金曜日になると、いかに自分をかわいらしく見せるか必死で考え、ありったけの笑顔を振りまいて一生懸命アピールしました。
  毎週金曜日のオーディションに、落ち続けることによって、私は夫婦がいったいどんな子が欲しいのか、わかってくるようになりました。
 たとえば、親の記憶ほとんどインプットされていないような、2~3 
 歳くらいのかわいい小さな子が人気なのです。
 そう考えると4歳くらいが、ぎりぎり。つまり、5歳になろうとしていた私は、まず年齢的にまずチャンスはなかった・・・。
 さらに空爆によって家族全員を突然失うという経験をしているので、精神的に不安定ではないかとみなされ、いつまでたっても「白羽の矢」が立つことは、ありませんでした。
(以下次号に続く)
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NPOヒューレック研究会「ワクワク2010」

(2010.5.15.号)
「戦場から女優へ」
5月度・月例会・特別講演録・講師 サヘル・ローズさん
第2章 私のところへ来る?

(前号から続く)
1. 孤児院へ
(1)天国のような病院の日々

  「みんなはどこ?」
 体がだいぶ良くなって、私はベッドのそばにいる「フローラ」に聞きました。僅かな沈黙のあと、彼女は私の目を見てこう言いました。
  「みんないなくなってしまったの」
 最初は、何を言っているのかわからず「フローラ」をじっと見ました
  「お母さんや、お父さんは?」
 彼女は、私をじっと見てこう言ったのです。
  「みんな死んでしまったのよ。生き残ったのはあなただけ」
 そこでようやく事実を理解したのです。たちまち涙が溢れてきて、気づいたときには、大きな声で泣いていました。
  予感はあったけれど、とうとうひとりぼっちになってしまった・・・。
  いっぽうで、自分でも不思議なのですが、心の奥底では「フローラがいるから大丈夫」と信じていたのです。
  しかし、天国のような病院の日々は続かなかった。回復した私を待ていたのは、退院という過酷な現実への入り口でした。戻る家もなく、引き取り手もいない私にとって、孤児院にいくことしか道はなかったのです。
  退院の日「フローラ」は私をギュッと抱きしめてて、お別れを言って帰りました。私は「これからも毎日会える」と思い込んでいました。
 でも、テヘランの孤児院行ってからは、「フローラ」に会うことはなかった・・・。
(2)新しい人生のスタート
   私は、孤児院がどういうところなのか、まったくしらなかった。不安でいっぱいになりながら、新しい人生がスタートしました。
  私は、両親から、本名で呼ばれていなかったので、ほんとうの名前をしりません。孤児院での私の新しい名前は、「ナリゲス」。
   孤児院では、30~40名の子どもが一緒に生活していて、心配していたよりは、以外に楽しそうだなというのが、最初の印象でした。
  (以下次号に続く)
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(2010.5.14.号)
「戦場から女優へ」
5月度・月例会・特別講演録・講師 サヘル・ローズさん
第1章 戦場に咲いた奇跡の青い花

(前号から続く)
4.鏡の衝撃
(1)初めて見た鏡
 
 体もだいぶ良くなり、ようやくベッドから起きだすことができるようになったある日、病室の中を歩いてみました。そのとき壁にかかっている鏡を発見したのです。
  私にとって鏡は、初めて見る不思議なものでした。覗き込んだ瞬間驚きました。なんとそこには、もう一人の私がいる!
  それまで私は、川に映るぼんやりした自分しか見ていなかったので、鏡の中にある、くっきりした自分の姿を見たときは衝撃的でした。
(2)鏡とケンカ
「あなたは、鏡とよくケンカをしていたのよ」と、フローラから聞かされたことがあります。
  たしかに鏡を見て「この人嫌い」と言って、自分を指し、怒ったり、泣いたりして、「なんで私のまねばかりするの!」と、鏡の中の自分と格闘していた記憶があります。動物みたい。それを鏡と認識するのには、多少時間がかかりました。
(3)白い顔
  (3)白い顔
  さらに、鏡を見て驚いたことが、もう一つあります。家族も町の人々も、誰もが貧しかったため、お風呂に満足に入ることができず、私は、人は、泥がついて茶色の顔をしているのだと思っていました。
 ところが、鏡に映っている自分は、土がついていなくて白い!
 そこで、初めて自分の本来の肌の色を知ったのです。
(4)私は鏡が好き
 私は鏡が好きです。なぜなら、泣きたいとき、つらいとき、必ず鏡が私を落ち着かせてくれるから、ケンカをしていた鏡のなかの自分を見て、「落ち着け、落ち着け」と話しかけることで、自分自身を落ち着かせます。あんなに嫌いでった鏡ですが、今では私の友だちです。
(5)新しい発見の数々
  ① 髪の毛もちゃんと洗ったことのなかった私の髪は、いつもゴワゴワ・ベトベトしているのが普通と思っていました。
    でも病院で自分の髪の毛に触れたとき、あまりにサラサラしているのに驚き、新鮮な感触でした。
  ② 新しいことをいっぱい発見する病室で、次に私が発見したこと、それは階段でした。それまで、階段の上り下りすらわからなかった私は、「四ツン這い」で一段一段這っていたそうですが、階段の登り降りも「フローラ」が教えてくれました。
  ③ 病院の中で私が特に楽しみにしていたのは、ご飯の時間です。
    なぜなら、病院のご飯は、それまでに食べていたものとは、比べものにならないくらい、美味しいものだったからです。
   私の家では、大きな葉っぱにのせた食べ物を、使いまわしの小さなお皿にわけ入れてもらい、お皿からそのまま手を使って食べていたのです。
    病院でナイフ・フォークの使い方もならいました。
  こうして、私は、病院での生活によって新しい発見と多くのことを
学びました。
(以下次号に続く)

















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6月度月例会のお知らせ

ヒューレック研究会6月度月例会のお知らせ

『今こそ、二宮尊徳に学ぶ』
~倫理と経済の融合を目指して~ 

ヒューレック6月月例会は、当会会長の棚橋正光による講演です。

月例会チラシ10_6

テーマ:研究会・勉強会 - ジャンル:学問・文化・芸術

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NPOヒューレック研究会「ワクワク」2010」

(2010.5.13.号)
「戦場から女優へ」
5月度・月例会・特別講演録・講師 サヘル・ローズさん
第1章 戦場に咲いた奇跡の青い花

(前号から続く)
3.病院の青い花 
 目を覚ましたとき、最初に私が見た光景は真っ白な天井。
 「ここはどこ?」
  そのとき自分がどういう状態になっているのか、まったくわかり
ませんでした。 
  ただ、体が痛くて動かすことができない。「痛い・・・」
  周りを見ると、たくさんのカラフルな「線」につながれている。
 今にして思うと、それは点滴のチューブ。見たこともなかったので、自分が病院のベッドに寝ているという認識はまったくなかった。
  そもそも私は、病院というものを知らなかったから・・・・。
 右側に顔を向けたとき、花瓶に挿してある色鮮やかな花が目に入ってきました。そのなかの「青い花」がどうしても気になって、手を伸ばしたけれど取れない。
 「はい、これね」
 女性の声がしたので、びっくりして思わず私は「ママ」と呼んだのです。
  しかしそこにいたのは、母ではなく、見知らぬ小柄な女性。こちらを見て微笑んでいます。
 「あなたは青い花が好きなの?」
 私が「どうして?」と聞き返すと、その女性は、こう言ったのです。
 「あなたを発見したとき、目の前に『青い花』があったのよ」
 その時初めて、その女性が私を助けてくれたことを知りました。
 そして、幼いながらも、私一人だけが助かってしまったことも。
 のちに聞かされたのですが、私は、このとき先天的な重い心臓病にかかっていたので、直ちに手術しなければならない状態だったといいます。
  しかし、空爆によって重症を負った体はとても耐えられないということで、手術するまでに半年待たなければなりませんでした。
  その間その女性はずーっと看病してくれたのです。
  その女性の名前は「フローラ」。
  (以下次号に続く)

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NPOヒューレック研究会「ワクワク2010」

2010.5.12.号)
「戦場から女優へ」
5月度・月例会・特別講演録・講師 サヘル・ローズさん
第1章 戦場に咲いた奇跡の青い花

(前号から続く)
2.戦場の青い花
(3)「フローラさん」の回想
  
空爆から4日目の朝、撤退の準備を始めましたが、その女性だけはあきらめられずに最後にもう一度現場歩いた の です。
  そのときの様子を、彼女はのちにこう回想しています。
  
  (いたるところに死体がころがっている。
   400人の市民が一瞬にして全滅した。
   これほどまでに悲しい出来事を、これまでに経験したことがあっ 
   たであろうか。
絶望のなかを歩いていると、ふと、瓦礫の間に咲いていた一輪の青い花が目に飛び込んできた。
   焼け焦げた茶色の土砂と瓦礫の中に、その花は、あまりにも場違いな存在。
    私は、青い花のそばで、小さく人形の手を見つけた。
   思わず近寄って触れてみると、それは人形の手ではなし。
   柔らかい。
   そして温もり。
   それは、間違いなく人間の手。
   空爆から4日、まさかと思いながらも、僅かな希望にかけて、脈をとってみると、ドクン・・・・ドクンと、かすかな脈を感じる。
  何度も 何度も確かめた
   弱いながらもしっかりとした脈があり、呼吸もしている。
   生きている!
   私は確信した。帰り支度をしていた、医師、看護師、救命士らがかけつけ、慎重に土砂を取り除いて掘り出すと、そこには、顔が血と泥で真っ黒になった、傷だらけの少女がいた。
   すぐにジープに運び込み、酸素マスクをあて、私たちは大急ぎで、テント張りの緊急医療施設へ搬送し終わったのは、2時間後でした。
    医療スタッフ総出で応急措置が施され、翌日飛行機でテヘランの病院に移送された。)

  (以下次号に続く)
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NPOヒューレック研究会「ワクワク2010」

(2010.5.11.号)
「戦場から女優へ」
5月度・月例会・特別講演録・講師 サヘル・ローズさん
第1章 戦場に咲いた奇跡の青い花

(前号から続く)
2.戦場の青い花
(1)大学4年「フローラさん」
 
 空爆のなかったテヘランの上流階級の家庭で裕福に育ち、平穏な日々を過ごしている1人の女性がいました。名前は「フローラさん」
  その女性は、大学4年生で心理学を専攻していましたが、イラン革命によって大学が閉鎖卒業できずに4年間が経過しようとしていました。彼女はだいがくでソーシャルワークの勉強をしていたためブランティアに興味があり、週に2~3回、病院で研修を受けていたのです。
(2)丸1日の捜索で生存者「0」 
 1989年2月下旬のある日、クルディスタン近くの町で、大規模な空爆があったという情報が病院に入り、ただちに 医 師、看護士、救急隊員急行することになって、その場にいた彼女もボランティアとして、加わったのです。
  しかし、諸般の事情から、クルマで到着したのは、空爆からすでに丸1日し、2日目の深夜2時を回っていました。
  徹夜で、生存者を探して周ったのですが、発見されるのは、黒く焼けこげ、岩に押しつぶされた死体ばかり。なかには、幼い子どもや赤ん坊も多数いたのです。
  翌朝、朝日に照らされたその町は、さらに絶望的でした。生存者のいる可能性は限りなくゼロに近い・・・・。現場にいた誰もがそう思いました。それでも僅かな望みを抱いて捜索を続けましたが、一人として、生存者を発見できず、その日の捜索で生存者を発見できず、その日の捜索は終了、翌日に希望をつなぐことになりました。
  次ぎの日も捜索が続けられましたが、一般的に生存者のタイムリミット「72時間」といわれ、あきらめムードが救助隊に漂い始めたとき、「イラク軍の攻撃があるかもしれないので、撤収するように」という命令が下されました。
(以下次号に続く)

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NPOヒューレック研究会「ワクワク2010」

(2010.5.10.号)
「戦場から女優へ」
5月度・月例会・特別講演録・講師 サヘル・ローズさん
第1章 戦場に咲いた奇跡の青い花
1.消え行く悲鳴

(1)土を塗り固めて乾燥させた家 
 私は、1985年、イランのクルディスタンの近くにある、小さな町 
 で、11人兄弟の末っ子として生まれました。そこは、イラクとの国
 境の近くにあり、イランの中でも、最も危険な場所の一つとされていて、絶えず紛争に巻き込まれていました。
  ほとんどが石を組み上げて作った家ばかりです。
  私たちの家も「土を塗り固めて乾燥させただけの貧しい家」に、一家13人の大家族で暮らしていました。
(2)400人の小さな町 
 私の町は小さくて、400人くらいしか住んでいない小さな町でした。私たちはラジオに耳を傾け「空爆の情報や、警報」を聞き、町を離れたり、地下壕に避難する、毎日でした。
(3)あの日もいつもと同じ 
 あの日もいつもと同じように「何事もなく、ようやく夜がきた」と誰もがそう思っていたのです。
  寝る時間になると、いつもと同じようにお父さんが私を抱っこして、11人兄弟が一緒に寝る布団に入れて、寝かしつけてくれました。
 寝つきのよい私は、すぐ眠りに入るですが、その日はどんなに頑張っても眠れませんでした。
  そして、一瞬、何か大きな光と音を感じました・・・・・。
  次ぎに気づいたときは、私の背中に大きくて重たいものが乗っていて、まったく動けない状態になっていました。
  なにが起こったのかまったくわかりません。
 男女の区別が出来ない、悲鳴に4歳の私が叫んだ声もかき消されてしまいました。
  やがて、たくさん聞こえていた、悲鳴も一つ、一つ消えてゆきました。
(以下次号に続く)

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NPOヒューレック研究会「ワクワク2010」

(2010.5.9.号)
「戦場から女優へ

5月度・月例会・特別講演・講師 サヘル・ローズさん
 「NPOヒューレック研究会」5月度・月例会は、今「話題の人」サヘル・ローズさんをお招きし、去る5月2日(日)13:30~15:30・築地社会教育会館において、講演会が開催されました。
 当日は連休中にもかかわらず、多数ご参加戴き、サヘルさんのお話に熱いものが沸き、終了後の感想発表も、感動の思いあふれるものばかりでした。
その概要のあらましをご紹介すれば次ぎの通りです。
1.サヘル・ローズさんの紹介
 1985年10月25日生まれ。イラン出身。89年イrン・イラク戦争での空爆により、住んでいた村が全滅し、ただ一人ボランティアの女学生の救出され、孤児院にはいる。
 その後、その女学生に養女として引き取られるが、養母が両親んから勘当されてします。
 93年日本で働く養母の婚約者(イラン人を頼り、2人で来日するも、今度は「連れ子」の存在が原因で、婚約者と養母が離別する。
 このため、公園でのホームレス生活が始まり、食事もままならない極貧生活が続く。
 中学では、クラスメートのいじめ等を経験。高校在学中より、「J-WAVE“GOOD MORNINNG TOKYO”」のレポーター等の活動を開始した。
07年日本テレビ「The・サンデー」内の「週間!男前ニュース」に「滝川クリサヘル」として出演し注目される。
 現在テレビ・ラジオ・CM・舞台で活躍中。
著書は「戦場から女優へ」2009.1.30文芸春秋から出版
(詳細をお知りになりたい方は、サヘル・ローズで検索下さい。)
(以下次号に続く)

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NPOヒューレック研究会「ワクワク2010」

(2010.5.8.号)
「本音で日本を語ろう」(在日外国人シンポジューム)
NHKの企画制作に提供しているの????

一昨6日の夜、一斉にメールが入ってきました。
それは、6日(木)午後7時30分からの「NHKテレビ1ch」の「日本のこれから“草食系”で何が悪い」「出世・ブランド恋愛に興味なし、・・・急増中!無欲な若者」「この国の将来は大丈夫なのか?」「草食系・つぶやきで激論に参入」の番組が終わってからのことです。
次々入ったメールをご紹介しますと次ぎのとおりです。
1.「本音で日本を語ろう」(在日外国人シンポジューム)と同じ
 NHKで、公開された、外国人の意見と、4月18日の「NPOヒューレック研究会」の「外国人の意見」は、全く同じで、「特に現代の若者を育て切れなかった年配者の責任」について、反省を求める点で同じであります。具体的には、次ぎの諸点が上げられます。
(1)「精神文化の継承」と「経済成長のエネルギーの継承」 
 日本には、「聖徳太子の17条の憲法」「第1条和をもって尊しとなすが」1600年継承され、現代世界の基本的精神である。
さらに加えて「仁義礼智信」の生活習慣の基本精神は、世界の範たる精神文化で、諸外国からの来日留学生は、これを、自国へ持ち帰りたいと考えている。
 一方「狭い領土・資源の無い日本が世界第2位の経済大国に成長させた「仕法と努力」は「世界の範たるものである。」
 この次世代への継承が日本で果たしてできているのであろうか。
(2)「文化から文明への過程で・・」
  司馬遼太郎が「文化とは個性的・人種・地域に偏在するもの」「文明はあまねく普遍性をもち発展してゆくもの」と、どこかで書いてありましたが、まさに現代日本は「日本文化」から「文明に変革する過程にあると」来日外国人に受け取られています。
 まず、「家庭文化・家族の絆」が、本来の日本から理解できない、「親殺し・子殺し」は、一体何がこうさせたか、理解できない。
(3)仕事に対する意欲 
 かっての経済成長の担い手の方々は高齢になられたが、その時の意欲を、次世代へどのように継承されたのか。
 現代の若者の「仕事への無気力」(「草食系」)を問う前に、そのように育てた自分自身を省みる必要があるのではないか。
(4)NHKの前にNPOヒューレック研究会が 
 現代社会の課題を、NPOヒューレック研究会が取り上げ、課題を提示し、さらに、その解決策まで、準備された総合企画をご存知の会員の皆様は、まさに「NHKの企画の原案を創作していたのではないか」と、メールを下さいました。
 「NHKの番組は問題提起」で終わっています。
 「報徳仕法」ではありませんが、「仕法」と「実践」が「合一」しなければ「NPOヒューレック研究会」はなりたちません。
 第2回の「本音で日本を語ろう」(在日外国人シンポジューム)を楽しみにお待ち下さい。
  おそらく「次回NHK」より先に「実践」の答えがでるでしょう。
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NPOヒューレック研究会「ワクワク2010」

(2010.5.7.号)
「本音で日本を語ろう」(在日外国人シンポジューム)
7.聴取者の感想
(4)日本人の感想いろいろ
① H.Oさん
 
a.人類は、「皆同じ心で生きている」と改めて感じた
 b.もし機会があれば「喜んで生き、歓んで死ぬための工夫。死生学」
  つまり、子どもを育てる親が生きるための指針に参考となる「生と死の考え方を、いろいろな面から討論する「講座」または「講演会」を希望します。
 c.今秋のミュージカルに参加します。
② T.Oさん  
a.比較的、日本を肯定的に見てくれているのがうれしかった。
 b.今回参加の外国人とミュージカルを共演したい。 
c.今秋のミュージカルに参加します。
③ T.Hさん 
a.日本人に対する見方が再認識されて、よかった。
 b.できれば「歴史の講演会」を希望します。
c.今秋のミュージカルに参加します。
④ H.Sさん 
a.今日参加して良かったことは、外国の方の目を通して、日本の良さの中、変えた方がいいといわれたことに 気づ かされたことです。
b.今秋のミュージカルは時間の都合で参加できません。
⑤ R.Yさん 
a.「ベナン」のエマニュエルさんが言っていた「自分の国の外にでて、自分の国を見ると、自分の国がよく見える」は自分の体験でも納得がゆきます。自分がメキシコに行った時「和の文化」や「約束を守る」(「仁義礼智信」)ということも、日本にいると当たり前のことが、はっきり認識できた。
 b.希望として「もっとコミュニケーションをとるゲーム」をしてみたい。
c.今秋のミュージカル参加します。
⑥ M.Kさん 
a.今日参加して「日本の本質は和」であることに気づかされたことです。
 b.ビジネス講座・創造力開発・等の講座があれば参加したいです。
c.今秋のミュージカルは時間の都合で参加できません。
⑦ K.Aさん 
 a.今日はいろいろの国の方の日本に対する意見が聞けてよかったです。日本のことを、日本の外から見た意見を聞   き、日本をよくみられました。
  また、「文化と経済成長」の融合の時代なんだと、話を聞いて思いました。
 b.この会の第2回目が開催されたら、今度は、日本人が思う「日本の良さ」と「デメリット」を出して、逆に「外  国人」から、それを「良さ」「デメリット」と思うかを聞いてみたいです。
⑧ R.Aさん
 a.このような会が、また開催される場合は、「私の17年間の米国実生活」をベースにした、「日本人でありなが  らそうではない、楽しいお話」をご披露します。
 b.今秋のミュージカル参加します。

この他アンケートで「今秋のミュージカルに参加します」とお答え頂いたのは「外国人」7名・日本人2名いらっしゃいます。
「本音で日本を語ろう」(在日外国人シンポジューム)関係記事は、これで、終了です。
ご拝読ありがとうございました
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(2010.5.6.号)
7.聴取者の感想
(3)「無記名(おそらく日本人)者」の感想「今日一番感動したこと」


① Aさん  
自分の気づかなかった日本の「良いところ」「問題点」を知ることができ、本当に良かった。
得に、外国人の方々が日本人以上に日本のことを思い、心配していることに、驚き感動しました。
② Bさん
「井の中の蛙 大海を知らず」
自分の国を改めて見る機会になりました。
③ Cさん
日本の精神文化の基本「和の心」を、遠いアフリカのベナンから来た方が、聖徳太子まで遡り説明されたことに感動しました。
そして、色々の国の人達と会い、私の知らなかったことまで、紹介して戴き感謝しています。
④ Dさん  
外国人が日本をどう思っているかを「精神文化」から「経済成長」まで、こんなに詳しく聞けたことに感謝しています。
また、なぜ日本に来たかも、その理由を聞け、このような機会を持てたことに感謝しています。
⑤ Eさん
きょうは、外国人に直接会って、日本での生活から、今後日本で住み続ける理由、など本質的なことが聞け、「日本」と「日本人」に深い「興味・関心」を持っていることに感動しました。
さまざまな人たちが、集まり、いい話し合いができて、本当によかったと思います。
⑥ Fさん  
外国人から見て、日本人は、なんでも「一生懸命」にやる態度が印象に残るということに気づかされました。
そして、色々の国の人の日本に対する「意見」や「来日の理由」を聞き、日本の国内にいては、気づかないことを勉強させてもらいました。
⑦ Gさん
日本の精神文化を、聖徳太子の17条の憲法から説き起こし、「現代の世界が求めているもの」とまで説明されたのには、びっくりを通り越し、アフリカのベナンでどうして、ここまで勉強したかと感動しました。
また「ウイグル」では、実家に2週間電話しないと、「元気でいるか?」と父親から電話がかかってくるという話は、いい話でした。
⑧ Hさん
「ウイグル」の方の「家族の絆」の話しは、印象に残りました。
日本も古来「儒教」の教えから、「家族愛」が形式ではなく、「熱い絆」で結ばれていたのが、「薄れる」だけでなく、「親殺し」「子殺し」まで、「日常的」事件になってしまっています。
「家族の在り方」を真剣に考える機会をもてたことに感謝しています。
(以下次号に続く)
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(2010.5.5.号)
ミュージカル部会関係

7.聴取者の感想
(2)外国人(発表者も含む)の感想「今日一番感動したこと」


① 韓国 H.Pさん
色々な考え方を学びました。
皆、違う国から来た人達が、感じることは違うんですね。
もっと、心を広げようと思いました。
② 韓国 S.Pさん
私が、日本に来て感じたことと、同じことを感じた。
色々な方の話を聞いて、我々も一緒のような気分を感じました。
③ 韓国 Y.Cさん
各国それぞれ、「来日」ということが、どんなに難しいか、あらためて再確認しました。
④ 中国ウイグル K.Sさん
いろいろ考えていたことを、日本人に率直に伝えられことが一番うれしかった。
⑤ 中国ウイグル A.Hさん
少しでも、本音で語ることができ感激でした。
⑥ ウイグル Uさん
外人同士で、日本を語ることに、とても感動しました。
⑦ フィンランド K.Aさん
日本に対する見方は、いろいろあるなと、あらためて気づかせてもらった。
⑧ タイ S.Uさん
日本について、色々な人の意見が聞けたことです。
ほかの人も同じことを考えているのだと知りました。
⑨ 香港 R.Rさん
参加者の皆さんが、それぞれ自分の国の誇りを大切にし、日本で生活している様子に感動しました。
⑩ 国? I.Gさん
家族の話が、一番感動し、同感しました。
家族は、大切な存在で、大切にすべきだと思います。
⑪ 国? R.Cさん
色々な「国」や「民族」が集まって、色々な「文化」をコミュニケーションでき感動しました。
(以下次号に続く)
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NPOヒューレック研究会「ワクワク2010」

(2010.5.4.号)
ミュージカル部会関係
「本音で日本を語ろう」(在日外国人シンポジューム)
7.聴取者の感想 


感動のシンポジュームが終わり、「NPOヒューレック研究会」恒例の6人1グループ毎の「本日の感想1分スピーチ」の発表が行なわれました。

①今日一番感動したこと②今日一番良かったこと③その他何でも
を主題に発表されました。

予め、「アンケート用紙」を配りメモをして頂いた内容を列記すると次ぎの通りです。
(1)日本人の感想「今日一番感動したこと」
① H.Oさん
「文明」が進むことによって、「文化」が衰退してしまうのかもしれない。「ウイグルの人達」の家庭のあり方に感動した。
② T.Oさん
皆さん、日本のことを、とても良く理解されていて素晴らしい。
③ T.Hさん
「ウイグルの家庭の話」親と連絡しないとダメという話しに感動しました。
④ N.Iさん
日本の良さを、あらためて外国の人にいわれ感動した。
⑤ H.Sさん
外国の皆さんがそれぞれ、テーマと決意を持ってチャレンジ精神で日本きていることに感動しました。
また、祖国と日本の「国と国との橋渡し」をしたいと言っている人が多いのに感動しました。 
⑥ R.Yさん
日本は、聖徳太子の17条の憲法以来「和を尊ぶ」精神文化を大切にしてきた国である。
今、世界は、「和」を大切にしようとしている。
日本の、この「和の心」が、世界に認められていようとしていることに感動しました。
⑦ M.Kさん
自分の国を外から観るということに今まで気づかなかっただけに、インパクトの強い話に受け取れた。
⑧ K.Aさん
日本の「和」の精神文化の歴史を、「アフリカ」の方から聞けたこと。
しかも「これからの世界に必要」で「アフリカ(ベナン)の文化とも通じている」と真剣に話す姿勢に感動しました。
⑨ R.Aさん
私は、日本人だが、17年間「米国実生活」もあり、やはり、外国人と同じ立場にいるんだなと感じた。
それと、外国人が見て感じる日本の話が、楽しかった。私も「ディスカッション」に入りたかった。
(以下次号に続く)
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NPOヒューレック研究会「ワクワク2010」

(2010.5.3.号)ミュージカル部会関係
「本音で日本を語ろう」(在日外国人シンポジューム)
6.今後日本に住むつもり
答(4)ヨーロッパへ行ってから決めます

私は、日本が好きで後3~4年日本にいて、それからヨーロッパに行くつもりです。
今婚約者と日本にきていますが、彼は、母国が嫌いで、ヨーロッパに行ったのち日本が良いか、ヨーロッパがいいかを決めます。
答(5)50%学費援助の答えを

私が、日本に住みたいというのは、日本の大学に留学したとき、学費の50%を支援してもらい、勉強しました。
まだ、その結果を日本で出していないのです。
出してから、日本に残るか、帰国するかを考えます。
答(6)日本の「文化と経済のお役に立ちたい 
もう一つは、日本は成長を続け、コップ一杯の状況でこれ以上は入らない状況です。
そして、少子高齢化の時代を迎え「労働力」が足りなくなっています。
これからの「日本の文化と経済」に少しでもお役にたちたい。
   そして、「ウイグルと日本の文化の掛け橋になりたい」と思って勉強しています。
答(7)4月会社設立5月開店
4月に会社を設立しました。そして、新宿に5月「ウイグル料理の店」を開店します。
答(8)「情報交換」の役割
ウイグルの情報を日本人は知らない。日本人に伝える「情報交換」の役割も務めたい。
そして、60歳位までは日本に住みたい。
60過ぎて「動けなくなったら」そのときは帰るかもしれません。

答(9)日本とベナン共和国の掛け橋

日本とベナン共和国は沢山似ているものがあります。
それは、文化です。ベナンに来た日本人が日本と同じとびっくりしたものもあります。
また、言語(発音・意味等)・コミュニケーションでも似たところがあります   
これは、一般の人はわからない。
これから私は、「日本とベナンの文化の橋渡し」をしようと思います。
(以下次号に続く)

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